ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

利己的と利他的

人間の本質とは、利己的だろうか?利他的だろうか?

誰しも一義的には自分自身の利益を最優先に考えるが、大局的な見地からは必ずしもそうではない。

人類の過去を俯瞰すると、歴史を動かしてきたものは、利他的な力だったのではないかと思う。

それは、愛する人のためだったり、家族のためだったり、民族のためだったり、国家のためだったり、人類のためだったりする。

よくよく考えてみれば、みんなが利己的な考えの固執していたら、人類はとうの昔に絶滅していただろう。

環境の変化や飢餓に耐え、人類が長い歴史の中で何万年も生きながらえてきたのはそれぞれの個人が利他的な行動をしたからに他ならない。

しかし、現代社会はどうだろう。

個人が、いくら利己的であっても、法律の範囲内で行動している限り何の問題もない。

それは、社会がそれを許すことができるほど豊かになった証拠とも言えると思う。

しかし、一方で利己的な行為は、環境問題や地球の温暖化の原因にもなっている。


最終的には「全体と個」の問題に帰結するのだろう。

「全体と個」の問題は、それほどに根深く、自己矛盾を孕んでいるように感じる。

 

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資本主義の本質

人間以外のほとんどの生物にとって、生きる事は食べ物を手に入れる事と同義なのだと思う。

人間もまた、自給自足の生活をしていた時代は食料を手に入れることに多くの時間を費やしていた。

やがて社会が成熟し、分業が進むと食料の生産は至上命題ではなくなる。

さらに、食料以外の生産が拡大し、消費社会が訪れるのだ。

消費社会こそが資本主義そのものなのだと思う。

オートメーションによって生産は効率化され、労働者は生産過程に組み込まれる。

生産された製品は、多くの労働者が購入、消費し、お金の循環が生まれる。
その結果、生産手段を持つ資本家に富が蓄積する、という構図である。

こうした工業化が進んだ時代には、人々の欲望は、より生活が豊かになる製品に対して向かっていた。

1950年代後半、家電3品目が『三種の神器』(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)としてもてはやされた。
さらに、新『三種の神器』が3C(カラーテレビ、クーラー、自動車)と呼ばれるようになった。

資本主義における価値とは、資本、すなわちお金である。

お金があれば、欲しいものが何でも手に入る。

戦後の焼け野原や何もなかった時代を知っているものにとっては、身の回りに物が増えていくという状況こそが、豊かさの象徴だっただろう。

しかし、生まれた時から、すべてが揃っていた時代を生きている世代にとっては、お金や物質では豊かさを感じられないのではないかと思う。

初期の資本主義は、可処分所得の奪い合いだった。

現在の資本主義は、可処分時間の奪い合いだという。

お金は、人間が作ったものだから限りがない。
時間には、限りがあるからお金よりも価値があるのだろう。

現在、繁栄している会社の多くは、この可処分時間を奪っている企業が名を連ねている。

Google、Yahoo、AppleAmazon、Disneyなどなど。

何か製品を作っているわけではない、時間をお金に換えるサービスを提供しているのだ。

お金による支配から、時間による支配へ。

資本主義の本質も変遷をしているように思うが、何が人をしあわせにするのだろうか。

 

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勝敗を分けるもの

ウィンブルドンテニスを観戦している。

テニスは自分でプレーしたことはないが、ライブを観はじめると途中で止めることができない。
一流選手のプレーは、それほど緊張感の連続なのだ。

どんなスポーツでも同じだが、観戦していて思うのはメンタルがいかに重要かということだ。

最終的に物をいうのは、フィジカルな面よりもメンタル面の差であるように思う。

ぎりぎりの状況の中で、ほんの些細な差が勝敗を分ける。

その真剣勝負に人が感動するのはなぜだろう?

それは生物が繰り広げる生存競争にも似てるように思う。

今生きている生物は、過去、一度も絶滅しなかったから今を生きている。

そんな、過去のDNAの記憶が人を熱狂させるのかもしれない。

 

今夜も寝不足になりそうだ。

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子どもの教育

縁あって、小学生に勉強を教えている。

若い頃から子どもに関わるボランティアをたくさん経験してきた。
仕事は、子どもとは無縁の業種だったが、いつか子どもと関わる仕事をしたいと思っていた。

子ども相手にボランティアをしていた頃、いろいろな親と子の関係を横目で見ながら、図らずも子どもをスポイルしている親を沢山見たような気がする。

しかし、そのほとんどは、子どもへの愛情が根源的な動機になっているのだ。
ごくレアな例を除いて、親の子どもへの働きかけは、愛情に基づいている。
しかし、残念ながら、それが上手く機能しない事も多い。

その多くは、子どもをひとりの人間として尊重することなく、自分の思い通りにコントロールしようとする所からはじまっている様に思う。

子どもにとって大切なのは、結果ではなくそのプロセスなのだが、多くの親は短期的な結果を求める。

子ども時代は、長い人生を生きるための自力を身に付ける期間だと思う。
学力はもちろん大切だが、いわゆる非認知能力(忍耐力、意欲、協調性、感情のコントロール、計画性など)こそが重要である。

親と子どもは、その関係が濃密であるだけに、当事者には関係性が見えにくくなる。夫婦なら離婚できるが、親子は縁を切ることができない。

そして、子どもは日々成長し、変化していくのだ。

子どもの成長には、親以外の多くの大人の手助けが必要だ。

わたしの活動が、そんな、子どもの成長の一助になればと思う。

 

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仕事

仕事には、2種類があると思う。

他の人に代替えが可能な仕事と、他の人には代替えが効かない仕事である。

現役で仕事をしていた頃、よく考えたのは、この仕事は私でなければ出来ない仕事だろうかという事だった。

誰にでも出来る仕事には魅力を感じない。
自分なりの工夫や独自性に意義ややりがいを感じていた。

アスリートや芸術家などの仕事は、他の人では代替えが効かない。

弁護士や医者のような専門職であっても、安心はできない。
グーグルが出現して以来、専門的な知識の価値は劇的に低下したからである。

代替えが出来る仕事とは、つまり、誰にでも出来る仕事とも言える。
さらに言えば、ロボットやAIに代替えが効く仕事とも言えるかもしれない。

デジタル的な仕事は、正確であることが求められる。
どんなに頑張っても、人間は正確さでロボットには敵わない。


私が考える、人でなければできない仕事、それは教育だと思う。

教育は、人を育てることによって、連鎖による拡大再生産を促し、更に、育てた人も育てられた人をも幸せにする。

人材こそが、尽きることのない無限の資源である。

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人を動かすもの

人を動かすもの。

それは、「欲望」ではなく、「共感」なのだと信じたい。

 

たぶん、いくつまで生きても、人は人生を短いと感じるのだろう。

どこまで行ってもやり残した何かは存在するのだろう。

よりよく生きられないものは、よりよく死ぬこともできない。

人生は可能性に満ちている。

無限の可能性もあるが、可能性でしかないとも言える。

だから、面白いのだ。

 

だから、今を生きるしかないのだ。

 

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付加価値

付加価値とは、人が労働によって生産された製品、もしくはサービスによって付け加えられた価値のことである。
現役時代に仕事をしていた頃、自分がしている仕事は給料に見合っているのだろうか、とよく考えた。
ザックリ言うと金融の仕事をしていた。
社会的な影響力という意味ではやりがいはあった。
会社の代表者や政治家、弁護士などと話をする機会も多く、仕事は面白かった。
しかし、自分の仕事がどんな人たちを幸せにしているのか、という実感はあまりなかった。

金融は社会の潤滑剤とも言うが、実際には何物も生み出してはいない。
取り引きにおけるリスクを回避する為の利ざやを取ったり、時間や距離の隔たりをお金に変えたりする仕組みである。
そこに情報というデータが付加されると利ざやはさらに拡大する。
物理的な商品が何もないのに、お金というデータだけが増えていくのだ。

お金という商品には、価値はあるが物理的な実体はない。量というデータがあるだけだ。
データにゼロがひとつ付くと10倍になる。

個別案件の融資においては、100万円の案件も1億円の案件も事務処理上のコストは変わらない。
金額というデータは100倍になるが、リスクは必ずしも100倍にはならない。
つまり、究極的にスケールメリットのある世界なのだ。
スケールメリットによって、金持ちはより金持ちになる。これこそが、貧富が拡大する理由である。

人々を幸せにする付加価値とは一体何だろうか。

いや、ロジックが逆なのだ。
人々を幸せにするものにこそ付加価値があるのだ。
お金によって人は幸せになれると幻想を抱くが、お金は手段でしかなく、目的にはならない。
目的はあくまでも幸せであり、その価値観は実に多様である。

実は、多様であることにこそ価値があると、わたしは信じている。

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