先週、役所広司氏主演の映画「PERFECT DAYS」を観ました。
役所広司演じる公衆トイレ清掃員の日常を淡々と描いた映画です。会話はほとんどありません。
それだけの映画ですが、共感とも、感動とも言えない様な、不思議な感情に囚われました。
刺激的なエピソードがなくても、日常は奇跡に溢れている。
そんなことを考えた映画でした。
人は、人との出会いによって運命に翻弄される。それは自らの選択か?偶然の出会いか?
中学時代の恩師からSNSを通じて50年ぶりに連絡があった。便利な時代になったものだ。
既に、私は前期高齢者、恩師はもちろん後期高齢者である。
半世紀の時を経ても、人の本性はそれほど変わらない様に感じる。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。
義務教育の期間は、良くも悪くも、多様な人材が集まっていた。それに比べると高校、大学は金太郎飴だった様な気がする。
そして、その後の現役時代。
自分の人生をかけてやりたい仕事ではなかったが、結婚したり、子どもが産まれたり、住宅ローンがあったりで、結局は定年まで同じ職場で過ごしてしまった。
振り返ってみれば、すべては一炊の夢か。
今は、とりあえず自由を謳歌しようと思う。
自由を謳歌するにもそれなりのスキルが必要なのだけどね。
最初の恋愛は命がけだった。
半世紀も前の話です。
今、振り返ってみても、なぜがそうなったのかはわかりません。
出会った瞬間、彼女を中心に世界が周りはじめた。
知るほどに、それは確信になっていった。
想い出すと、あの頃の感情が蘇って、胸が苦しくなる。
とりあえず、あの時、死ななくてよかった。
恋愛は至上ですが、人生にはもっと雑多な日常がたくさんあります。
恋愛は原色ですが、人生にはたわいのない色が混在しています。
何が刺さり、何を選択するかは、人それぞれ。
だから人生は面白い。
正義が普遍的、絶対的な価値だったら、世界はもっと平和になっただろう。
正義の味方があらわれて、悪者を懲らしめ、一件落着。
しかし、世の中は、それほど単純な構図では動いていない。
多くの戦争は「正義のため」という大義名分で始まる。
正義と正義の対立で戦争が起こるのだ。
主観的な正義は、個人の数だけ存在する。
厄介なのは、正義という価値観が多くの人にとって、主観的に唯一無二だと思わせる力があることだ。
人は年齢を重ねることによって多くの知見を得るが、知識よりも体験した事により強く影響を受ける。
知識は理性的な論理だが、体験は情念だからだろう。
体験は、体験した人だけのものだ。
だから、人は、自分の体験を疑うことがない。
自分の中でストーリーを構築し確信を深めていくのだ。
人は、信じたいものを信じる。
それこそが個人のアイデンティティだ。
社会秩序に反しない限り、個人のアイデンティティは常に尊重されなければならない。
しかし、集団、国家になると話は違ってくる。集団は、権力を持ち、正義という大義名分で、自己の正当性を主張することによって求心力を維持しようとするからだ。
正義は常に対立の中にある。
それは、何かを信じるエネルギーこそが正義の本質だから、なのだろう。
あなたが信じている何かが、正しいのかどうかの検証は常に必要だと思う。
還暦を過ぎてから、目が霞む様になった。
メガネが合わなくなって、視力が落ちたのだろうと思っていた。
メガネのレンズを替えてもらおうとメガネ店に行って検眼をしてもらった。
レンズの度数を上げても、視力は0.5くらいまでで、それ以上、上がらないと言われた。
つまり、メガネでの視力矯正は既に限界で、加齢による白内障の疑いがあるとのこと。
白内障という病気があるということは知っていたが、自分とは遠い存在だと思っていた。
父母も含め、親戚に高齢者はたくさんいるが、白内障になったり手術したという話は聞いた事がなかったからだ。
それからしばらくして、遠くのものが二重に見える様になった。
どうやら白内障が進行しているらしい。
2021年1月に運転免許の更新をした。
矯正視力、両眼で0.7が合格ラインらしいが、何とかギリギリ合格した。
しかし、その後も視力が低下している自覚があったので、行きつけの眼科で診察を受けた。
案の定、すぐに手術することをすすめられた。
左右の目の手術を、1週間ずらして片方ずつするらしい。
手術日は、右目5月19日、左目5月26日に決まった。
2回の手術を同一月内にすると手術代を合算して、負担した高額治療費から一定額が控除された給付金が受けられるらしい。
それにしても、目の水晶体を取り除いて、人工レンズに置き替える手術と、説明は受けたが、そんな事が本当にできるのか、半信半疑だった。
最初の手術は利き目の右目からである。
手術日の3日前から感染予防の目薬を3時間おきに入れる。
手術当日は、手術1時間前に病院へ。
麻酔の目薬をさして1階の待合室で待機。手術室は、2階である。
呼ばれて、エレベーターで2階に移動。手術室の控え室で手術が始まるまでさらに待機。
患者は順番に手術室に入る。
私の順番は、二番目だった。
手術室に入り、歯科の椅子のような手術台に横になった。
血圧計、心電図、オキシパルスメーターを付けられた。
目の周りを入念に洗い流して消毒、殺菌をする。
その後、目の部分に穴の開いた布を顔に被せられて、手術が始まった。
医師が鉗子の様なものを持っているのが一瞬見えたが、その後は何も見えなくなった。
目の上を何かで覆われ、眩しいだけで映像は見えない。
とにかく、手術中は、両目を開けて、上の方で光っている部分だけを見つめる様に指示された。
角膜の横を切開して、そこから濁った水晶体を掻き出すらしい。たぶん、細いスポイトの様なもので吸い出しているのだろう。何やら機械の音が聞こえる。
終始、痛みは全くないので、何をしているのかは、想像をするしかない。
水晶体が取り除かれて、替わりの人工レンズを入れて終了。
手術は15分ほど、あっけないほど簡単に終わった。
手術が終わってすぐに自力で歩くことができる。
視界はぼんやりしているが、肉体的なダメージはない。
おそるおそる手術した右目で見てみると、確かに良く見える。
しばらく、控え室で休息してから、再び1階の待合室へ。
手術後、3日間は寝る時も保護用のゴーグルメガネを付けるとのこと。また、入浴も禁止。
無意識に手で目に触ってしまうことを防ぐためらしい。
朝・昼・夕・寝る前、1日4回の目薬が2種類。
朝・夕の目薬が1種類、しばらく点眼を続けなければならない。
手術後、帰宅。目は充血しているが、痛みもなく、手術した右目は裸眼でも良く見えるようになった。
しかし、手術をしていない左目は相変わらず近視で視力は0.05ほど。
左右の視力にギャップがあるため、普段通りの日常生活というわけにはいかない。
人は、情報の9割は目から入ってくるという。それだけに、両眼の手術が終わるまでの間は、とても長く感じた。
1週間後、2回目、左目の手術。
前回の経験があるため、リラックスして臨めた。
同じ手順で手術が終了。
1週間ぶりに、左右の目の視力が同じになった。
手術から5日後、新しいメガネを作って、やっとスッキリした。
感染症予防のために、事前、事後の段取りはいろいろあるが、確かに視力は劇的に改善する。
人工的なレンズを体内に入れると何らかの違和感があるのでは、と思っていたが、全く違和感はなかった。
手術の日を含めて10回ほど通院。
手術の前後、日常生活が不便になる。
数ヶ月間、断続的点眼。
費用は、国保で両眼10万円ほど。
最終的に、矯正視力は1.5になった。
新しいメガネをかけてから数時間は、世界がはっきり見え、何と世界は美しいのだろうと感動した。
それにしても、医学の進歩は、驚くばかりだ。
では、人は何のために生きるのか?
自由な時間と自由に使えるお金がふんだんにあったら、人は何をするのだろう?
ずっと前から考え続けているテーマである。
そんな視点で様々な人の生き様を見てきて感じたことがある。
それは、人は、若かった頃に満たされなかった何か、忘れてきた何かを取り戻すために生きるのだ。
こだわりは、その人の経験によって醸成される。
並々ならぬこだわりは、壮絶な経験に裏打ちされているのだろう。
こだわることで、承認欲求が満たされ、なりたかった自分に近づく。
それこそが人として人生を全うする事なのだと思う。