ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

わたしの本棚

本棚に並んでいる蔵書を眺めると自分が過去何を考えていたのか、何に興味があったのかが時系列的に把握できる。

ネットの情報は、ある意味刹那的で流れ去ってしまうが、自腹を切ってでも得たかった情報の縮図が購入した書籍の背表紙に見える。

その中でも、繰り返し読みたい本はわずかではあるが確実に存在する。

過去、50年ほどで一番影響を受けた本は何なのかなぁ、と考えながら本棚を眺めた。

そのうちの1冊を披露しよう。

ビーイング・デジタル』
ニコラス・ネグロポンテ
株式会社アスキー
1995年11月1日初版発行
である。

著者は、MIT・メディアラボの創設者であり初代所長ニコラス・ネグロポンテ
ちなみに現在のMIT・メディアラボの所長(第4代目)は、日本人の伊藤穰一氏である。NHKの番組、TEDスーパープレゼンテーションのナビゲーターとして知っている人もいるだろう。

ビーイング・デジタル』は出版された1995年は言うまでもなく、ウインドウズ95が出た年、インターネット元年とも言える年かもしれない。

コンピュータ関連の書籍は、数年で陳腐化することが多いが、この本の客観的な先見性は群を抜いている。
現在のコンピュータ、インターネットの状況を的確に予言している。

わたしにとっては、まさに驚くべき予言の書なのだ。

 

f:id:ayuminokuni:20170625015734j:plain

小説を書く理由

小説を書いている友人曰く。

小説を書く動機には、2種類あることに気づいたという。

ある小説家志望の若者が言ったらしい。
『現実や人間がつまらないから、小説を書いている』と。

その友人はまったく逆らしい。
『現実や人間があまりにすごいから、それを描くために小説を書いているのだ』と。

出来上がった作品はまったく別物になるのだろう。

 

創造が現実を超えるのか?

創造が現実を追いかけるのか?

 

f:id:ayuminokuni:20170624001319j:plain

人知れぬ思い

人知れぬ思いが自分自身であると言ったのは誰なのか?
人に言わぬ思いが自分自身であると誰が言うのか?
僕が僕であるように、きみもきみであるだろう。

なぜ言うのか?
その気安さで、その人が何を思うかも知らずに。

君よ、君の心に届かぬ悔しさで、僕は君を見ても何もできないとは信じないし、諦めよりもあふれる思いは大きい。

だから、みんな一緒だと僕は知っている。

 

f:id:ayuminokuni:20170623223534j:plain

快進撃が止まらない

藤井四段が将棋の公式戦連勝記録を伸ばしている。
過去の記録28連勝に並んだらしい。
特筆すべきは藤井四段が14歳の中学生ということだ。

この結果はもちろん藤井四段の才能、努力の賜物ではあるが、ある意味起こるべくして起こった現象ではないかと思っている。

インターネットの出現以来、知的情報にアクセスするためのコストが劇的に下がったからだ。
過去のありとあらゆる情報がインターネットに蓄積されているため、ほとんどコストをかけずにそれらにランダムアクセスすることが可能になった。
それらはテキストデータに留まらず、音声、地図情報、写真、動画などなど。
現代の最先端の英知に簡単に、無料でアクセスできる。

その状況は将棋についても同じだろう。
詰将棋の問題、過去の名人戦棋譜、AIを使った対戦などなど。
将棋に強くなる情報はいくらでもネット上に溢れているのだ。

そうした量的にも質的にも制約のない情報と若くして柔軟な才能あふれる萌芽が出会ったとき、今までにない才能が開花したのではないかというのがわたしの分析である。

こうした現象は、たぶん将棋だけに留まらないように思う。
たまたま、年齢制限がなく、勝ち負けがはっきりしている将棋という世界だからこそ顕在化したのだろう。

簡単なシミュレーションで考えてみた。
勝ち負けが2分の1だから、28回続けて勝つ確率が0.5になる場合を想定すれば大体の勝率が計算できるだろう。
つまり、勝率の28乗が0.5になる勝率を考えればいいように思う。
その場合の勝率は、なんと約97.6%である。

将棋は、野球やサッカーのように点差で実力の差が計れない。
しかし、連勝記録からのシミュレーションによる勝率からの計算ではあるが、97.6%というのは、かなり驚異的だと思う。

勝負事である以上、藤井四段もいつかは負ける日が来るだろう。
一体、どこまでの高みに登るのか。
同姓だからというわけではないが、興味は尽きない。

 

f:id:ayuminokuni:20170622171812j:plain

育児の本質

生後6か月の初孫が初めて我が家にやってきた。

ほんの短い間だったが、30年ぶりに赤ん坊に接して色々なことを考えた。

人間の赤ちゃんは生まれてから自立するまでに長い期間を要する。
自分で自分の世話ができるようになるまでに最低数年。
自分で生活の糧を得られるようになるには更に10年以上もの期間が必要だ。

その理由は、人間には生きていくのに必要な情報が膨大だからではないかと思っている。
動物の場合、その情報のほとんどはDNAに盛り込まれている。
教えられなくても鳥は巣のつくり方を知っているのだ。

しかし、人間の場合は少し違う。
赤ちゃんは、白紙の脳のメモリーに膨大な情報を日々蓄えこむ。
そこで行われるのは外部からの刺激による自律的な学習、情報の取捨選択、忘却というデータ圧縮だ。
赤ちゃんを見ていると、起きている時間は常に周りの気配にアンテナを張っているように見える。
手に触れるものを口に入れて確かめ、自分の周りにいる人々を観察している。
あとは、乳を飲み、眠っている。
自分の生活の世話は親たちに任せ、ひたすら脳に情報を蓄えているようだ。

赤ちゃんの脳は、もともとの情報(OSの部分)はそれほどたくさんないが、自由に使えるメモリー空間は膨大にあるのだろう。

だからこそ、赤ちゃんは将来、何にでもなれる可能性を秘めている。
何になるかは本人の選択だが、できるだけ可能性を伸ばしてやりたいと思うのが親心ではないだろうか。

今の世の中は変化のスピードが速すぎて、価値観も多様化している。
そんな中で、親が子どもにできることは何なのか。

人生を生き抜く、最低限のリテラシーを身につけさせることではないかと思う。

言語能力、コミュニケーション能力、情緒の安定、根気、論理的思考、運動能力、空間認識能力などなど。

育児の渦中にいる大人たちは溢れる情報に右往左往して、何が本質かを見失っているケースが多いように思う。
大人は、過去の成功体験にとらわれるが現実は予想以上に変化している。

親ができることは、環境を整備して、適切な情報を与え、本人の選択を尊重する。
これぐらいではないかと思っている。

本来、昔も今も、育児の本質は変わらない。

 

f:id:ayuminokuni:20170620232925j:plain

理不尽な出来事

時として、人生には理不尽な出来事が起こる。

その時、人はどういう行動、選択をするのだろうか?

選択肢は3つしかない。

1.理不尽な出来事を悔やみ恨み続ける。

2.理不尽な出来事に対し怒り反撃する。

3.理不尽な出来事を受け容れ許す。


理不尽な出来事に対する怒りのエネルギー、感情をコントロールすることは難しい。

怒りは、論理ではないからだ。

そして、怒りは時として破滅的な結果をもたらすリスクさえはらんでいる。

後悔したくないなら、すべてを受け容れ「許す」しかない。

その場に留まらず、顔をあげ前進すべきである。

 

f:id:ayuminokuni:20170619113310j:plain

しあわせ

人生の究極の目的は、幸せになることだと思う。

問題は、人によって幸せに対する価値観が違うことだ。

生物の生きる目的が自らのDNAを残すことだとすれば、弱肉強食の論理ですべてが説明できるだろう。

しかし、生物の生きる目的が「種」のDNAを残すことだとすれば、必ずしも弱肉強食の論理では説明できない。

人間は「種」のDNAを残すことを本能的に求めているように見える。


つまり、人間は誰かを幸せにすることで自分が幸せになれる動物なのだと思う。

 

f:id:ayuminokuni:20170618212258j:plain