ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

労働の意味

労働の意味

コンピュータ、特にAI(人工知能)、ディープ・ラーニングの進化は、これまででは考えられないようなブレイク・スルーを人類にもたらすように思う。

AIやロボットが進化していくと究極的には、人間は労働をする必要がなくなるような気がする。

付加価値の多くはロボット、インターネット、コンピュータのシステムが作り出す。

人間の仕事は、生み出された付加価値を消費することである。

企業の労働生産性が上がれば、ベーシックインカムによって人々は生活できるようになるだろう。

人間は、教育、研究、介護、芸術などの分野では必要だが、多くの仕事は自動化によって必要がなくなる。

衣食住が満たされたとき、労働にはどんな意味が残されているのか?


労働とは、現状をより良く変えていこうとする意志ではないかと思う。

その意志、エネルギーはどこに向かうのか。


その答えは、人類の未来に直結している。

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人の尊厳

人としての尊厳は、自分が世の中で必要とされているという実感だと思う。

誰かの役に立っている、何かに貢献しているという感覚は、生きていることの意味を感じることができる。

自分が世界の一部であり、世界と自分がつながっている感じることが生きているということだろう。

自分を信じ続けることでしか道は拓けない。

成功した人たちは、もれなく信念の人、だからだ。

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民主主義

総選挙の選挙戦がスタートした。

当事者がヒートアップすればするほど、一般の人々が冷ややかな感じになるのはなぜだろう。

アメリカの大統領選挙とはずいぶん違うように感じる。

日本人のメンタリティとしては、自分の政治的な立場を対外的に表明することに抵抗があるのかもしれない。

政権選択選挙といいながら、首班指名間接選挙であることも盛り上がらない原因なのだろう。

また、選挙期間が短いため、比較検討ができず一時的なブームに流される傾向問題だ。

 

政治家と呼ばれる人たちと何度か会ったことがあるが、思想信条というよりは、最終的には、その人のキャラクターを好きか嫌いかが重要な要素である様にもおもう。


結局、政治家という職業があまりにもハイリスクな職業であり、庶民から縁遠いことが問題であるように思う。

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知的情報のコストと教育

知的情報のコストと教育

インターネットの出現で、知的情報を得るためのコストは劇的に安くなっている。

以前だったら、専門的な本を購入したり、学校に通ったりしなければ得られない情報が、インターネットの中には溢れている。

わからないこと、知りたいこと、様々なノウハウなどなど。

ほとんどの情報はインターネット、スマホで即時に知ることができる。

様々な教養番組、学校の授業、さらに大学の講義でさえも動画で公開されているのだ。

言い換えると知識を持っていることの価値が下がったとも言える。

こころざしさえあれば、いくらでも知識が蓄えられる時代になったのだ。

知識やノウハウは、既知の事実となった時に陳腐化する。

人の特徴である創造性や応用力でさえ、AIのディープラーニングで人の能力を凌駕しようとしている。


では、人としての価値、人でなければできないこととは何だろう。

それは、初等教育の分野ではないかと思う。

 

人は、人によって教育されなければ、人にならないからである。 

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モチベーション

人は何をモチベーションにして生きてゆくのか?

アメリカの心理学者アブハム・マズローは、欲求の5段階説(欲求のピラミッド)を主張したことで知られている。

すなわち、第一階層は「生理的欲求」、第二階層は「安全欲求」、第三階層は「社会的欲求(帰属欲求)」、第四階層は「尊厳欲求(承認欲求)」、第五階層は「自己実現欲求」である。
ちなみに、マズローは晩年、五段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それは「自己超越」という段階であるらしい。

わたしの場合、自己実現を承認欲求が邪魔をしているような気がする。

よくよく考えてみれば、他人から承認などされる必要はないのだ。

純粋に自己実現を追求すればいいだけの事である。

自由に生きるというのは、そういうことだが、習い性と成るで「承認欲求」の呪縛から逃れるのはなかなかに難しい。 

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総選挙と1票の格差

衆議院が解散した。

明日が公示日である。

言うまでもなく、今回の選挙は、多数の議員を輩出した政党の党首が総理大臣になる政権選択選挙だ。

日本の未来は、日本国民の選択に委ねられている。


ここで、1票の価値、格差について考えてみたい。

統計によると、団塊の世代65歳から69歳の人口は、997万人。

20歳から24歳の人口は、620万人しかいない。

つまり、団塊の世代に比べて、20代の若者の政治的な影響力は62パーセント、2/3ほどしかないということになる。

さらに、選挙の投票率は若い世代ほど低い。

一般的に選挙の投票率は年齢プラス10パーセントが過去の実績だという。

つまり、20代の投票率は30パーセントほど、団塊の世代60代の投票率は70%ほどなのだ。

ここでも、20代の政治的な影響力はさらに半分以下になっている。

また、都市部と地方の1票の格差の問題もある。

若い世代は都市部に比較的多く住んでいる。

1票の価値は人口の多い都会ほど相対的に低い。

最近、最高裁は3.08倍の格差を合憲とする判決を出したばかりである。

世代間人口の格差、投票率の格差、地域間人口の格差、いずれの格差も若年層に不利に働いている。

結果的に、団塊の世代と20代の若者とでは政治的な影響力は、実質そうとう大きな格差になっている事は想像に難くない。

これでは、どう考えても、高齢者優遇の政治は解消されない。

この格差を合法的に埋める事の出来る方法は、若年層の投票率を上げるしかないのが現状だ。

50年前、団塊の世代は20代の若者だった。

全共闘世代とも呼ばれ、若者でありながら一定の政治的な影響力を持っていたのだ。

結果的に、その世代が、良くも悪しくも、いまだに政治的な影響力を維持し続けているのは驚くべきことだ。

現状に対する認識を深め、今後の日本をデザインし、どうすべきかを考えるのは未来ある若者の仕事なのだと思う。


60歳のおじさんが言うのもおこがましいが、若者よ、選挙に行って、未来を切り拓こう。f:id:ayuminokuni:20171009235238j:plain

最高の学びとは

教えることこそが、最高の学びである。

人に何かを教えるという行為は、意外に大きな労力を要する。

事前の準備、予習、相手の能力、スキルに合わせた対応も必要だ。

ただし、必要以上に多くを語らず、聴くことに傾注すべきである。

教える側は、教えるという行為が、自分自身の学習、スキルの向上にもなることを自覚しなければならない。

結果、教える側と教えられる側には一体感が生まれる。

さらに、教えられた者は、教える者へと成長してゆくのだ。

最終的には、教えること、教えられることの連鎖は全体の水準向上に大きく寄与することになる。

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