スポーツの効用
小学生と遊んでいるとずるいことをしたり、詭弁的にルールを捻じ曲げてまで勝とうとする子どもが時々いる。
子ども相手に感情的になることはないが、論理的に説明してもなかなか納得しない子どもも多い。
ずるくなれるのは、子どもに知恵が付いた証拠なのだろう。
他人と勝負をして勝つためには手段を選ばないというのは、小学生であっても、大人であっても、一国の指導者であっても同じなのだなぁと思う。
そんな人間のエネルギーを昇華させるために、人はスポーツに熱中するのだろう。
スポーツであれば、明確なルールがあり、どれだけ熱中しても問題はない。
オリンピックであれ、ワールドカップであれ、人がスポーツに熱中する姿は、感動すら覚える。
自分がスポーツをしていて感じるのは、本当の敵、究極の敵は相手ではないということだ。
実は、自分自身との闘いなのだと思う。
トイレットペーパーの謎
トイレに座っているときに、こんなことを考えた。
50年ほど前、わたしが子どものころのトイレットペーパーは四角いB5版ほどのちり紙だった。
小学校の汲み取り式のトイレにはトイレットペーパーの備え付けはなかった。
ハンカチとちり紙は小学生の必須アイテムだったのである。
いつの頃からか、トイレットペーパーはロール式になっていた。
その時期は、水洗トイレの普及と同じくらいのタイミングだったと思う。
なぜトイレットペーパーがロール状に巻いてあるのか、漠然とした疑問を抱いていたが、その疑問は解明されないままになっていた。
最近になって、トイレットペーパーの三角折の是非が話題になった。
三角折不要論の根拠としては、「用を足した後のまだ洗っていない手でトイレットペーパーをさわってほしくない」という衛生的な観点からの理由らしい。
それを聞いて、はたと気がついた。
トイレットペーパーがロール式になっていた理由のひとつは、製造された後、トイレットペーパーに誰も触っていないことを保証するためだったのだ。
あー、すっきりした。(笑)
生物とは何か?
生物にはいくつかの定義がある。
◎細胞でできている。
◎代謝を行える。
◎子孫を残す。
◎進化する。
などなど。
ただし、これらの定義は便意的なものにすぎないのかもしれない。
生物と無生物の境界がはっきりしないからだ。
よく言われるのは、生物と無生物の境に存在するウイルスという存在だ。
ウイルスは、遺伝子は持っているが細胞を持たないので、単体としては繁殖できない。
他の生物にもぐりこむことによって生物の様に振る舞う。
現在の学問では、ウイルスは生物のカテゴリーではないとすることが主流らしい。
ロボットやコンピュータウイルスなど、人間が創造したものがさらに進化した場合、生物に限りなく近づく可能性があるかもしれない。
また、遺伝子組み換えによって生み出された新たな生物も従来の生物とはカテゴリーを異にする必要があるかもしれない。
さらに、宇宙には恒星や惑星そのものが生物であるような、従来の生物よりも大きなスケールで、生物のような振る舞いをするものがあるかもしれない。
そういえば、地球全体を一つの生命体と考えるガイア理論という考え方もあった。
「生物とは何か?」という問題は自分とは何かという問題にも似て哲学的で奥が深い。
クワガタとDNA
最近、さる昆虫学者からこんな話を聴いた。
ある種のクワガタは、縄張り争いの時に2本の角をハサミの様に使い、相手の足を切断して地面に落とすような攻撃をするものがいる、とのこと。
足を切断されたクワガタは、もはや木の上に戻ることができなくなるため、蟻などのエサになり命を落とす。
以前に、動物はメスをめぐる争いをしても最終的に相手の命を奪うことはない、ときいていたが昆虫には例外がいるらしい。
これは、自分の子孫、種を残そうとするDNAのなせる技だという。
同性の種を殺して、自分だけが繁栄したところで、種全体の絶対数が減ってしまえば種の存続は難しくなる。
全体として種が数を増やさなければ、自分の子孫が種を増やす機会も増えないからである。
昆虫の場合、一回の生殖で残す子孫の数が多いためこんなことが起こるのだろう。
すべての生物は例外なく、自分の種を残そうとして生きている。
その結果、これほどの多様性のある生物が地球上に出現したのだ。
生物の究極の目的は、自己の繁栄だけなのだろうか。
最近のナショナリズムが台頭する国際社会を見ながら、こんなことを考えた。
多様性を認め、共存出来る社会を目指すことこそが人類の知恵であるように思う。
相手の命を奪う、クワガタの角を人類は手にしてはいけない。
リテラシー
「リテラシー」という言葉は、もともとは「読み書き能力、識字能力」という意味である。
過去、リテラシーという概念が生まれた背景は、リテラシーを持つ人々と持たない人々を比較した時、リテラシーを持たない人がさまざまな不利益を蒙ることが多い、というこころからきている。
そこで、人が社会生活を送るうえで不利益を蒙ることがないようにするため、最低限身につけておくべき基本的な知識という意味で、リテラシーという概念が生まれた。
だが、コンピュータの出現以来、「情報リテラシー」(情報活用能力)という言葉が注目を集めた。
「情報リテラシー」とは大雑把にいうと、「メディア・リテラシー」と「コンピューター・リテラシー」に分かれる。
すなわち、「メディア・リテラシー」とは、メディアの情報を読み解く能力。
「コンピューター・リテラシー」とは、コンピュータを操作して、目的とする作業を行い、必要な情報を得ることができる知識と能力である。
つまりは、現代社会はコンピュータやインターネットを上手に使えないと不利益を蒙るかもしれないというメッセージでもある。
世の中が進歩していくと、知っておくべき「リテラシー」はどんどん増えていく。
子どもは、人類の進化の過程を前提として、現在を生きなければならないからだ。
近々、小学校でもコンピュータ教育が始まるらしいが、その中身は、ここで言うところの「情報リテラシー」とはかなり趣を異にしているように感じる。
未来を生きる子どもにとって必要な「コンピュータ教育」は、「情報リテラシー」であって、ロボットを動かすことやグラフィックスの絵を描くことではない。
いつも、文科省の考えていることはピントがずれている。
労働の意味
労働とは、苦痛か、喜びか?
過去、日本の農業、稲作は、自然を人間化する試みだった。
人は、自然の中で食物を作り出すために農作業をした。
労働は、生きていくための食物を作り出す喜びの作業だ。
しかし、近代資本主義は、労働を使役と義務、苦痛なものにしてしまった。
労働とは、ある意味、人生そのものかもしれない。
どんな人生を選択するかは、どんな仕事を選択するかにかかっている。