アニメの世界では正義の味方が大活躍する。
子どもは正義の味方が大好きだ。
しかし、よく考えてみると正義とは何だろう?
アニメの世界では、判りやすい犯罪者が悪、犯罪者を懲らしめるのが正義なんだろう。
しかし、実際の世の中はそんなに単純に色分けはできない。
正義の名のもとに戦争やテロが起こったりするのだ。
その理由は、正義が主観的な価値観だからである。
正義は常に謙虚でなくてはならない。
正義を振りかざすとろくなことにはならない。
アニメの世界では正義の味方が大活躍する。
子どもは正義の味方が大好きだ。
しかし、よく考えてみると正義とは何だろう?
アニメの世界では、判りやすい犯罪者が悪、犯罪者を懲らしめるのが正義なんだろう。
しかし、実際の世の中はそんなに単純に色分けはできない。
正義の名のもとに戦争やテロが起こったりするのだ。
その理由は、正義が主観的な価値観だからである。
正義は常に謙虚でなくてはならない。
正義を振りかざすとろくなことにはならない。
人が生きてゆくためのモチベーションとは何なのかなぁと考えた。
お金?名誉?正義?公平?恋愛?友情?信仰?信念?共感?
様々な価値を手に入れるために人々は右往左往するが、その根底にある価値観は『ワクワク』ではないかと思う。
ポジティブな動機の場合、もれなく人は『ワクワク』するために行動する。
つまり、自分は何にワクワクするのだろう?と考えれば自分が欲している価値観が判るのかもしれない。
ワクワクの量は、幸せの量に比例する。
毒親という言葉があるらしい。
毒親というのは、暴力、暴言、ネグレクト、過干渉などによって、子どもに悪影響を及ぼす親のことだという。
暴力、暴言、ネグレクトについては、論外だし親にも自覚があるので何らかの対策は可能だろう。
問題は、過干渉である。
過干渉をしている親のもっとも深刻な問題は、親にその自覚がないことである。
自分の事を振り返ってみると毒親というほどではないが、私の親はやや過干渉だったのではないかなと思っている。
子どもにとっての親は、ある時期までは神に等しい。
子どもは、親からの指示や命令に無条件に従おうとするのだ。
しかし、ある時期を境に、子どもは自我に目覚め、親の指示、命令に疑問を抱き始める。
それが子どもにとっての反抗期であり、そこで親離れ、子離れが起こる。
その親離れ、巣立ちの時期が、子どもにとっては大人になるためのもっとも難しい通過儀礼であるように思う。
過干渉の親は、過干渉の自覚がなく、子どもの親離れを許さない。
また、子どもの側もうまく自立するタイミングが計れない。
親子関係の問題点は他人からは見えにくいので、問題は顕在化されないことも多い。
親と子の関係において、この通過儀礼がスムーズに行われるかどうかがもっとも大きな問題であり、その後の子どもの人生に大きな影響があるように思う。
今振り返ってみると、親の過干渉の一義的な動機は、子どもへの愛だったのだろう。
愛が過干渉という形に姿を変えた時、愛は独占欲に変わり暴走するのだ。
本来、愛は優しさであり、優しさは余裕から生まれる。
親子関係は、つかず離れずが望ましい。
朝、目覚めると時々素晴らしい考えが頭に浮かぶ。
その多くは日常雑事の中で雲散霧消してしまう。
今朝は、なぜか『死ぬまで生きる』という言葉が頭に浮かんだ。
その時に考えたことを全部書くことはできない。
『死ぬまで生きる』という言葉だけを今朝メモに走り書きした。
怒って生きても、嘆いて生きても、悲しんで生きても、笑って生きても、一生である。
どうせなら、笑って生きたい。
そんなことを考えたように思う。
朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
好きな言葉だが、なかなかこの境地には至れない。
ビジネスは言うまでもなくギブ&テイクである。
誰かを出し抜いていかに自分の利益を上げるかを考える人が多い。
しかし実際には、いかに多くの人を幸せにすることが出来るか、を考えることが成功への近道であるように思う。
自分が創出できる付加価値とは何か?
顧客満足を上げるにはどうしたらよいか?
その二つを考えれば成功に近づけるだろう。
経営者には、二つのタイプがあるという。
従来の経営者、規模の拡大、利益の拡大を目指すタイプ。
そして、もう一つは、新しい何かを発見したいというタイプ。
世の中に変革を引き起こすのは、たぶん後者のタイプだろう。
何をモチベーションとするかでタイプが決まるが、もはや拡大、スケールメリットは目標ではなく、単なる結果なのだと思う。
業態によって、適正規模が決まるからだ。
世の中を動かすものは何なのか?
利己主義は「経済」、利他主義は「共感」ではないかと思う。
経済は弱肉強食の世界であり、ある意味潔い価値観ではあるが、世界は経済だけでは動いていかない。
共感は時に奇跡を生むが、多くは幻想であることが多いようにも思う。
矛盾に満ちた人間という存在の危うさ。
わたし自身、いまだに結論は出ていない。
人間、歳を取ると時間が経つのが早く感じるとよく言われるが、確かにそういうことはあるのかもしれない。
振り返ってみると、同じような仕事をルーティーンでしていた時期はあっという間に時間が過ぎていったように思う。
気がつくと10年20年が経過していたという感覚だった。
個別には仕事上いろいろな出来事があり、それなりに充実していたはずだが、目の前の問題をひたすら処理していただけの毎日だったようだ。
人生に必要なのは、人生の密度ではないかと思っている。
人生の濃密な時間、それは確かに存在した。、
密度の濃さは、初めての経験のストレスに比例するように思う。
初めての経験、人生の密度こそが自分を成長させるのだ。
歳をとると初めての経験が少なくなり、あえてリスクを冒さなくなる。
密度の薄い人生はなんと味気ないことか。
少なくとも長生きは人生の目的ではない。
小学校でコンピュータ教育が始まるらしい。
個人的には、若年層への一定のコンピュータ教育は必要だろうと思っていたが、実際に行われようとしているコンピュータ教育の中身についてはやや懐疑的だ。
わたしがたまたま見聞きした小学生向けのコンピュータ教育の内容はこんな感じである。
ロボットを動かすという目的のプログラムを書き、実際にロボットを動かすことが目的。
フローチャートを用意して、全体像を把握する。
プログラムは、ソースコードを記述するわけではない
パラメータを入力したアイコンをいくつか画面にドラッグアンドドロップしていくと書ける仕掛けである。
そのプログラムをロードするとロボットが意図通りに制御できる。
正しくプログラムを作らないと当然ロボットはうまく動かない。
試行錯誤しながら、デバッグをすれば完成である。
コンピュータは論理の積み重ねで成り立っている。
複雑なプログラムも、分解してみれば論理の数が多いだけにすぎない。数が多く複雑だから難しく感じるだけである。
逆に言うと、単純なプログラムであっても基本的な論理は同じだ。
通常、コンピュータ処理は数値データを扱うことが多いが、小学生の場合はロボットの動きの制御やグラフィックスを使ったものが多い。
数字よりも動きや視覚に訴える方が子どもにとって解りやすいからなのだろう。
プログラミングとは論理の組み立てだが、そうした論理的思考はコンピュータのプログラミング以外でも十分養えるように思う。
個人的に考えるコンピュータ・リテラシーとは、プログラムの実践ではなく、コンピュータの仕組みを教える事ではないかと思っている。
コンピュータがデジタルデータを内部でどのように処理をしてるのかを理解することこそが重要であるように思う。
プログラムを書くことは、そのプログラム言語の論理に依っている。
プログラム言語が変われば、論理の組み立ても変わってくるのだ。
時代と共にプログラム言語も変遷する。
だからこそ、汎用的な知識こそが必要であるように思うのだ。
真に必要なコンピュータ・リテラシーとは何だろうか?