大人と子どもの境はどこにあるのだろう。
それは自己を客観視できるかどうかであると思う。
子どもは世界の中心で生きている。
大人になるにつれて子どもは自分が世界の中心でないことに気づく。
人から自分がどう見られているのかを意識することで自我が確立される。
自己を客観視することが、子どもが社会の一員となる第一歩なのだろう。
大人と子どもの境はどこにあるのだろう。
それは自己を客観視できるかどうかであると思う。
子どもは世界の中心で生きている。
大人になるにつれて子どもは自分が世界の中心でないことに気づく。
人から自分がどう見られているのかを意識することで自我が確立される。
自己を客観視することが、子どもが社会の一員となる第一歩なのだろう。
明け方、微睡の中で夢を見ていた。
夢とは、自分が無意識で考えた出したフィクションを、体験したことだと感じる体験である。
夢の中で、電話で誰かと話をしていた、と思う。
話の中身は覚えていない。
話をしている最中に、急に相手が沈黙した。
なぜ急に話を止めたのかな、と考えていたら、それは私が夢から覚めた瞬間だった。
つまり、電話の相手が話す言葉を体験として感じていた自分が、覚醒によって体験できなくなったのである。
不思議な体験だった。
過去、大航海時代、ヨーロッパ文明の発展の原動力は未知の新大陸が存在していることが判ったからだという。
いつの時代も、未知なるフロンティアの存在こそがすべての原動力となるらしい。
では、現在の状況はどうだろう。
地球は狭くなり、インターネットというバーチャルな空間でさえ、もはや飽和状態になっている。もはや地球上に未知なるフロンティアは存在しない。
73億人は住むには、地球は小さ過ぎる。
残された未知のフロンティア、それは地球外の衛星や惑星にしか残されていないのかもしれない。
自由と平等の問題は古くて新しい問題である様に思う。
振り返ってみると人類の歴史は、ある意味『支配と差別』の歴史だったのだ。
その理由は、食糧の生産性が低かったためではないかと思っている。
生存を危うくする飢餓に備えるために、『支配と差別』によって支配者は食糧を確保したのだろう。
その後、食糧の生産が安定し社会が豊かになると『支配と差別』から『自由と平等』を獲得する歴史へと社会は変遷する。
ただし、「自由」と「平等」は並立しないのだ。
自由を尊重すると平等が損なわれ、平等を尊重すると自由が損なわれるからだ。
今の世の中は、平等よりも自由が尊重されているように見える。
自由を保障することが、経済の推進力になるからである。
しかし、自由は同時に経済格差という弊害を生んでしまう。
自由と平等の問題は、簡単には結論が出ない。
人は年齢とともに成長していきます。
その成長の速度は個人差があります。
大切なことは、その個人にあった時期に適切な刺激を与えることで、その成長を促すことです。
早い時期に、しっかりとした土台を作ることで、より強固な素地、自我が確立されます。
土台を作るという作業は、一見、遅々として進まず、効果のないように見えますが、ここ
にこそ多くの労力と時間をかけるべきなのです。
土台さえしっかりしていれば、その後どんな建物を建てることも可になります。
若年教育、人材育成こそが、他の何よりも効率のよい投資なのです。
それは本人のためであることはもちろん、国家、社会にとっても有益な投資です。