恋愛について
恋愛の厄介なところは、論理ではないという部分だろう。
恋愛の何たるかを知らなくても、恋愛は可能なのだ。
人も動物も本能の赴くまま行動することができる。
恋愛に対する理屈は、いつも後付けだ。
恋愛とは、それほど崇高なものではないのかもしれない。
恋愛が崇高なものになるかどうかは、まさに当事者の問題だからだ。
人間は教育を欠いては人になれない。
恋愛もまた、何らかの教育の成果なくしては成就できないものなのかもしれない。
7年前の日記
◎以下は、7年前の日記である。
昭和51年、1976年3月。
わたしは、失意の中にいた。
大学受験に失敗し、2年目の浪人生活が確定したのだ。
自分の存在価値を見失いそうになり、しばらく一人旅に出た。
岡山県笠岡のユースホステルに泊った時に、カメラマン志望の青年と知り合った。
いろいろな話をした。
わたしが、明日は倉敷に行くと言うと、「倉敷にいい喫茶店があるから、行ってみたら」と教えてもらった。
それが、「サロニカ」という喫茶店だった。
場所は、アイビースクエアーの西、交差点の角にある小さなコーヒーショップである。
翌日、倉敷の美観地区を散策し、教えてもらった喫茶店で、コーヒーとホットドックを食べた。
コーヒーを運んできた女性が、接客に慣れていなくて、妙に初々しかったのが印象的だった。
それが、わたしが覚えている昭和51年、1976年3月のできごとだ。
先日、たまたま、倉敷を訪れる機会があった。
そして、あの喫茶店「サロニカ」を訪れてみることにした。
同じ場所に、同じたたずまいで「サロニカ」は建っていた。
店に入ると、店主らしい初老の女性が、ひとりで店内のかたずけをしていた。
わたしに気づくと、
「コーヒーと紅茶だけで、食事はできませんが、いいですか?」
と話しかけられた。
「はい」と答えて、以前に来た時と同じ席に座った。
他の客は、いなかった。
店の中は、時間が止まっているようだった。
あれから、数十年の時が流れたとは信じられない。
今座っているこの場所は、まぎれもなく、10代のわたしが座った場所だった。
店内を見渡す光景に見覚えがあった。
10代の頃に、一度訪れただけの喫茶店なのに、あの頃の記憶は、何と鮮明なのだろう。
ホットコーヒーが運ばれてきて、女性店主と再び言葉を交した。
わたしは、今日、この喫茶店を訪れたいきさつと自分の思い出話をした。
それから、1時間ほど女性店主と話をした。
わたしが最初に、この喫茶店を訪れたころは、開店直後だったこと。
東京に住んでいたが、女性店主の夫が、脱サラして、倉敷で喫茶店を出したこと。
その夫とは、数年前に死別したこと。
それでも、なお店を続けてきたこと。
などなど。
店内は、コーヒーの香りで満たされ、不思議な時間が流れた。
日常は、小さな奇跡に満たされている。
そんなことを感じた1日だった。
パラドックス
以前に何かの本で読んだパラドックスの話。
いまだに理屈が判らない。
知っている人がいたら教えてほしい。
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ふたつの封筒の中にお金が入っています。
入っている金額は判りませんが、片方の封筒には、もう一方の封筒の2倍の金額のお金が入っているという前提条件があります。
あなたとあなたの友人が、その封筒をひとつずつもらいました。
あなたは、封筒の中を見ると8万円が入っていました。
友人の封筒に入っている金額はわかりませんが、両者の合意が出来れば交換できます。
損得を考えた場合、あなたは、交換すべきでしょうか?
わたしの結論から言えば、交換すべきです。
自分のもらった金額が多い方なのか、少ない方なのかは判りません。
問題は、交換した場合にもらえる金額が増えるか減るかです。
その確率は50%です。
不思議なのは、その期待値が常に1倍を超えていることです。
友人の封筒には、4万円か16万円のどちらかが入っているはずです。
この場合の期待値は、(4万円+16万円)÷2=10万円ですから、もとの8万円より多くなります。
実は、この考え方は、友人が封筒を交換すべきかどうかを考えた場合の結論と同じです。
友人の封筒にいくらが入っていたとしても同じことがいえます。
友人もまた、あなたと封筒を交換したほうが得という結論になるのです。
ここで不思議なのが、あなたのとっても友人にとっても「交換したほうが得」という同じ結論になるところです。
だからこそパラドックスなのですが、普通に考えれば、どちらかが得をすれば、どちらかが損をするはずです。
交換をしたからといって全体の金額が増えるわけではありません。
どうしてこんなパラドックスが成立するのでしょうか?
謎です。
人工知能
NHKのテレビ番組
NHKスペシャル 人工知能 天使か悪魔か2017
を観た。
人工知能をテーマにした番組に「天使か悪魔か」というサブタイトルを付けるのは、人工知能に対して一抹の恐れをを抱いているということだろう。
ノイマン型のコンピュータの仕組みは解りやすい。
プログラムのステップを追っていくだけだ。
人間より高速処理が可能だったため省力化に寄与した。
ムーアの法則に従って、コンピュータは進化していったが、性能の進化は、単に処理の高速化と容量の増加にすぎなかったのである。
わたしの理解では、人工知能の本質は、ビッグデータの有効活用ではないかと思っている。
コンピュータの処理の高速化と容量の増加はビッグデータの活用を可能にした。
蓄積されるデータは、増えこそすれ減ることはない。
時間の経過とともにコンピュータの予測精度が高くなるのは当然の結果である。
問題は、データ解析のロジックである。
人工知能の将棋の対戦ソフトを例に考えると、先の先まで、あらゆる手をシミュレーションすることができればもはやコンピュータに負けはない。
人間はミスをする動物である以上、勝つことはできないからだ。
しかし、そのコンピュータ同士が対戦したらどうなるだろう。
それでも、必ずどちらかが勝ち、どちらかが負ける。
その勝敗は強い方が勝つという必然か、単にサイコロを振るのと同じ偶然なのか。
不確実な未来に正解はない。
あるのは生死をかけた選択だけだ。淘汰されて生き残った者が正解なのだ。
生き残るのは、人間なのか、コンピュータなのか。
未来の学校
『未来の学校』テスト教育は限界か
トニー・ワグナー著
という本の書評が朝日新聞に載っていた。
要約だが、そこに書いてあることは実に興味深い。
わたしが最近考えていることともかなりの部分で合致するように思う。
わたし自身の頭の整理のために、書いておく。
◎未来に巣立ってゆく子どもたちに求められる能力、資質とは?
まず特徴的なのは、従来とは違い、専門的知識の有無は資質としては求められない。
インターネットをはじめとして、知識を得るためのコストが劇的に下がったため、たくさんの知識があるだけでは能力としては評価できないのだろう。
子どもたちにもっとも必要な3つの資質とは?
1.的を得た質問をする能力(問題発見能力)
2.相手の目を見て対等に議論できる能力(コミュニケーション能力)
3.他人と協調しながら仕事を成し遂げる能力(他人との協調性)
授業に求められる3つの要素とは?
1.暗記よりも常に学び続ける能力の養成
論理的に考え分析する能力
その結果を的確かつ巧みに文章あるいは口頭で表現する能力
2.学習の動機づけの養成
議論、プロジェクト、実習、論文執筆などへの参加
疑問や興味を掘り下げる機会を持つ
3.評価について
達成度の評価は、筆記試験ではなくパフォーマンスで評価すべき
ただし、パフォーマンス評価は現実問題としては困難
現在の学校教育制度が変わっていかなければならず、変わるべき方向性も示されてはいるが、実際にはなかなか難しい。
それは人の本当の才能を数値化し評価することが極めて困難だからである。
結局、結果を出すことでしか評価基準は存在しないのである。
貧困の連鎖
子どもの貧困が問題になっている。
貧困の連鎖とは、親の貧困のために子どもの教育の機会が失われ、結果として貧困が世襲してしまう現象をいう。
子どもは未来の希望なのに、貧困の連鎖によってその希望が失われている。
自由主義経済である以上、競争によって経済格差が生まれるのは必然である。
それは大人の事情、ある意味自業自得なのだ。
しかし、その結果、未来を担う子どもたちに悪影響を及ぼすのは、国家にとって、社会全体にとって大きな損失だし、なにより子ども本人にとっても不幸なできごとだ。
きちんとした教育を受ければ、後々、子どもは優良な納税者になってくれるのである。
しかし、適切な教育をせず、その子どもを放置すれば、ならず者や犯罪者になって社会のお荷物になってしまうかもしれない。
アメリカにおいて、若者を1年間刑務所に収監するコストは、若者を1年間大学に通わせるコストよりも高いらしい。
少なくとも、適正な教育を受けられる権利を子どもたちに保障しなければ貧困の連鎖は解消しない。
わたしの思いつきではあるが、予備校、学習塾など営利目的の教育事業において、学習支援の一翼を担ってもらうのはどうだろうか。
障害者雇用促進法においては、従業員の雇用が一定数以上の規模の事業主は、従業員に占める身体障害者・知的障害者の割合を「法定雇用率」以上にする義務がある。
これと同じように、一定の事業規模以上の予備校、学習塾において生活困難世帯の子どもを一定率以上在学させることを義務化すれば格差の是正に寄与するように思う。
現在の貧困対策、学習支援は、ともすれば底辺の子どもたちのレベルの底上げの意図があるように思うが、この方法により生活困難世帯にあって既に学力が一定レベルに達している子どもたちに対しても、より高い目標、希望を持たせることが可能になるように思う。
そうした取り組みが、ひいては貧困の連鎖解消に役立つのではないかと思っている。
わたしの本棚
本棚に並んでいる蔵書を眺めると自分が過去何を考えていたのか、何に興味があったのかが時系列的に把握できる。
ネットの情報は、ある意味刹那的で流れ去ってしまうが、自腹を切ってでも得たかった情報の縮図が購入した書籍の背表紙に見える。
その中でも、繰り返し読みたい本はわずかではあるが確実に存在する。
過去、50年ほどで一番影響を受けた本は何なのかなぁ、と考えながら本棚を眺めた。
そのうちの1冊を披露しよう。
『ビーイング・デジタル』
ニコラス・ネグロポンテ著
株式会社アスキー刊
1995年11月1日初版発行
である。
著者は、MIT・メディアラボの創設者であり初代所長ニコラス・ネグロポンテ氏
ちなみに現在のMIT・メディアラボの所長(第4代目)は、日本人の伊藤穰一氏である。NHKの番組、TEDスーパープレゼンテーションのナビゲーターとして知っている人もいるだろう。
『ビーイング・デジタル』は出版された1995年は言うまでもなく、ウインドウズ95が出た年、インターネット元年とも言える年かもしれない。
コンピュータ関連の書籍は、数年で陳腐化することが多いが、この本の客観的な先見性は群を抜いている。
現在のコンピュータ、インターネットの状況を的確に予言している。
わたしにとっては、まさに驚くべき予言の書なのだ。