ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

行列のできるうどん屋

香川県は「うどん県」という別名があるらしいが、常々不思議に思っていることがある。
それは、行列のできるうどん屋と行列のできないうどん屋の違いは何なのだろうということだ?

うどんの原材料は、小麦粉と塩と醤油と出汁くらいしかない。
原材料にバリエーションを付ける要素は少ない。
製造工程もそれほど複雑とは思えない。
値段も味もそれほど変わらない。

それでも、行列のできるうどん屋と行列のできないうどん屋が存在するのだ。

あるうどん屋では人の行列ができ、あるうどん屋では閑古鳥が鳴いている。
味や価格にそれほどの差があるようには思えない。不思議な現象だ。

わたしの仮説だが、行列のできるうどん屋と行列のできないうどん屋の差は、店主の気合の差ではないかと思っている。

大げさに言えば、飲食店は、一種の舞台であり、総合芸術である様に思う。
どんな接客をして、どんな演出をして、どんなものをどうやって食べさせるのか?
それが店主のアイデンティティそのものなのだ。
それは、うどん屋でも高級フレンチでも本質は変わらない。

結果は、顧客満足度で店主は評価される。

わたしのお気に入りのうどん屋に関して言えば、その店舗全体に店主の神経が行き届いている。

待っている客の行列の長さ、食事をしている客の進捗状況、席の空き具合、食材の在庫状況、店員の動きなどなどを店主が常に把握し、店舗全体を店主がコントロールしている。
当然、店主の気合は店員にも影響を及ぼすため、店員の動きに無駄がなく、接客のクオリティが高いように感じる。
結果、客は心地よさを感じ、その店のリピーターになるのだ。

こんなことは、口で言うのはたやすいが、実践はかなりむずかしい。

飲食店は常に客の反応が直に判る。

飲食店ほど、魅力的で、むずかしい商売はないように思う。

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世界は二極化している

世界は二極化している。

ざっくり言うと富裕層と貧困層

二極化の原因は経済状況の世襲にある。

富裕層の子どもが富裕層になり、貧困層の子どもが貧困層になる。

よく言われることだが、東大生の親の平均年収は、他の大学に比べるとダントツに高いらしい。

結局、日本の場合、教育費が高すぎるように思う。

公教育が貧困なので、お金をかけなければ、より良い教育は受けられないのだ。

努力が報われなければ社会は活性化しない。

親の経済状況という本人の責任のないところで自分の人生が決まってしまうのでは、未来への希望は持てない。


貧困の連鎖を断ち切ることが喫緊の課題である。

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十人十色

十人十色という言葉があるが、最近は同じ顔をした人間が多くなったような気がする。

その理由は、ネットなどで情報の共有が簡単にできてしまうからなのだろう。

多くの人は打算で動く。
世間で何が流行っていて、何が得なのかという情報は、瞬く間に万人の知るところになる。
そのトレンドに向かって人々は殺到するのだろう。

そんな世の中では、人とは違うことをすることにこそ価値があるのだと思う。

いろいろな奴がいて、いろいろな考えあったからこそ世界は多様性に富み、発展してきたのだろう。

多様性こそが鍵なのだと思う。

そういえば、「出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打てない」なんて言葉もあった。

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子育てという幸せ

最近、何度か子育て支援施設を訪れる機会があった。
明るい室内で幼い子どもとお母さんがゆったりとした時間を過ごしている。
30年前の子育ての事が思い出された。

我が家の子育てに関しては、私の仕事が忙しい時期だったので専業主婦だった妻が主体で、私は仕事の合間に手伝っているという感覚だった。
いろいろなことが初めての経験で子育てを楽しむ余裕はなかったように思う。

子どもたちとおもちゃで遊びながら、子育てというのは、充実した創造的作業だなぁ、と感じた。

子どもの成長を実感できる子育ての時期はとても短い。

親も子も、子育てという幸せの時間を存分に味わってほしいと思う。

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ひらめき

日常生活の中で、突然、思考のひらめきが訪れることがある。

思考は常に流れている。

その流れの中で、キラッと光る何かが見える瞬間。

その瞬間の思考の断片を急いで書き留める。

しかし、残念ながら、その多くは、かなたに雲散霧消する

そうした日常の繰り返しが、思想の構築につながっていくのだろう。

与えられた知識には大した価値はない。

自分で気づいたこと、オリジナルにこそ価値がある。

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手放すということ

昔の写真を見ながら考えた。

思い出の価値は、それを体験した私にとっての価値であり、他の人にとっては価値のないものなのだと。
それが私にとってどんなに価値があろうとも、他の人にとっては関係がないのだ。
過ぎ去った過去に思いを馳せてもあまり意味はない。

近年、断捨離が流行りだが、物やお金を「溜め込む」だけでなく「手放す」ことを考える時期にきているようにも思う。
そのことによって、誰かと何かを共有できるかもしれない。

お金で幸せが買えないことは頭では理解しているが、実感として感じるには年齢を重ねることが必要だ。

預金通帳の残高も必要だが、幸せに生きるための方法論も大きなテーマである。

手放すことによって得られるものに価値がありそうな気がしている。

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お金は魔物である

サラリーマンの現役時代は、金融の仕事を36年間してきた。

お金にまつわる悲喜こもごもの出来事が日常的に起こる。
お金で人生が変わったり命を落とす人もいるが、考えようによってはお金で解決できる出来事はたいした出来事ではない。

世の中には、お金で解決できないことがいくらでもあるからだ。

それでも、お金は魔物だと思う。

融資案件で、よく感じたのは100万円の融資と1億円の融資は、金額は100倍違うが、担当者の手間はほとんど同じということだ。

だったら、100倍利益の出る案件を扱う方がいい。

もちろん、実際には100倍の利益は出ないが、それでもスケールメリットは大きな魅力である。その誘惑に人は勝てない。

お金の金額は物理的なサイズではない。価値という目に見えない力を数字に置き換えているだけである。

だから、いくらでも溜めこむことが可能だし、人間のお金に対する欲望も際限がない。

生活が維持できる以上のお金を使って、人は何をしたいのか?

お金は持っているだけでは意味がない。使ってなんぼのはずだが、実際には溜めこむことが目的になっている人もいる。

多くの人はお金がたくさんあれば、それで幸せになれると思っているのだ。
その呪縛から逃れるのは難しい。

やはり、お金は魔物である。

 

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