リテラシーとは?
リテラシー(Literacy)とは、元々「書き言葉を、作法にかなったやりかたで、読んだり書いたりできる能力」を指していた用語である。日本語では、単に「識字」と訳されることもある。
その後、転じて「なんらかの分野で用いられている体系を理解し、活用する能力」を呼ぶようになった。
派生的に「○○リテラシー」という言葉は数多く存在し、社会的に認知されている。
現代においては、当初のリテラシー(識字)という概念はあまり意味をなさない。
識字を身につけることは、前提となってしまったからだ。
つまり、取得普及率が100%に近づくとリテラシーはリテラシーでなくなり、新たなリテラシーが生まれるのだろう。
たぶん、リテラシーは全員がその能力を持っているわけではないが、身につけておくことが望ましい能力というぐらいの位置づけなのだろう。
世の中が複雑化すればするほど、身につけるべきリテラシーの種類もまた多くになっていく。
学校教育で教えるべき知識が、そもそものリテラシーだと思うが、その優先順位を決めるのはむずかしい。
心の持ちようで世界は変わる
量子論的には、世界は客観的に存在しているのではなく、人間が世界を理解、解釈することによって形成されるという考え方があるらしい。
確かに世界はひとつしかないように見えるが、実際には各人が主観によって世界を解釈しているので、各人の数だけ世界が存在しているともいえる。
ポジティブな感情に支配されると世界は楽しくなり、ネガティブな感情に支配されると世界は楽しくなくなる。
世界をどう解釈するかは、各人の問題なのかもしれない。
行列のできるうどん屋
香川県は「うどん県」という別名があるらしいが、常々不思議に思っていることがある。
それは、行列のできるうどん屋と行列のできないうどん屋の違いは何なのだろうということだ?
うどんの原材料は、小麦粉と塩と醤油と出汁くらいしかない。
原材料にバリエーションを付ける要素は少ない。
製造工程もそれほど複雑とは思えない。
値段も味もそれほど変わらない。
それでも、行列のできるうどん屋と行列のできないうどん屋が存在するのだ。
あるうどん屋では人の行列ができ、あるうどん屋では閑古鳥が鳴いている。
味や価格にそれほどの差があるようには思えない。不思議な現象だ。
わたしの仮説だが、行列のできるうどん屋と行列のできないうどん屋の差は、店主の気合の差ではないかと思っている。
大げさに言えば、飲食店は、一種の舞台であり、総合芸術である様に思う。
どんな接客をして、どんな演出をして、どんなものをどうやって食べさせるのか?
それが店主のアイデンティティそのものなのだ。
それは、うどん屋でも高級フレンチでも本質は変わらない。
結果は、顧客満足度で店主は評価される。
わたしのお気に入りのうどん屋に関して言えば、その店舗全体に店主の神経が行き届いている。
待っている客の行列の長さ、食事をしている客の進捗状況、席の空き具合、食材の在庫状況、店員の動きなどなどを店主が常に把握し、店舗全体を店主がコントロールしている。
当然、店主の気合は店員にも影響を及ぼすため、店員の動きに無駄がなく、接客のクオリティが高いように感じる。
結果、客は心地よさを感じ、その店のリピーターになるのだ。
こんなことは、口で言うのはたやすいが、実践はかなりむずかしい。
飲食店は常に客の反応が直に判る。
飲食店ほど、魅力的で、むずかしい商売はないように思う。