人生
最近、Dlifeで再放送されている『ER緊急救命室』を視聴している。
日本で最初に放送されたのは、NHKのBS2で1996年4月1日から2011年3月10日にかけてである。
最初に放送された時、毎週、VHSビデオに録画をして観ていたのを思い出す。
当時、海外ドラマシリーズのクオリティの高さに驚愕したものだ。
病院の緊急救命室の話だから、当然、生と死が交錯する。
そこにはアメリカ社会の縮図が見え隠れする。
人種差別、貧困問題、ドラッグ、銃、エイズ、LGBT、医療過誤訴訟、などなど。
日本の日常生活の価値観とは違う世界がそこにはあった。
それでも、生身の人間が織りなす喜怒哀楽のドラマは、刺激的で多くの事を考えさせられた。
一般的に日常生活では死を意識することはほとんどない。
それでも誰の身にもいつか必ず訪れるのが死なのだ。
不老不死を願う人もいるだろうが、長く生きる事が目的の人生は意味がない。
所詮、人生は一炊の夢だ。
たとえどれほど長生きをしたとしても、満足することは決してないだろう。
人生については、より長く生きられたらと考えるよりは、与えられた命、時間をもっとうまく使えたらと考えるべきなのだろう。
子どもの貧困
世の中が、全体としては豊かになってるような気がするが、近年、子どもの貧困が問題となっている。
団塊の世代は、ほとんどが現役を引退し、年金生活になった。
また、高度な医療が普及し、平均寿命も延びている。
結果的に、富の分配が高齢者に厚く、若年層に薄いのかもしれない。
大人の貧困が、すなわち子どもの貧困ではある。
しかし、わたしの子ども時代、50年前は現在より社会全体が貧困だったとは思うが、子どもの貧困はそれほど顕在化していなかった。
今と違うのは、少子化傾向であるにもかかわらず、未婚のシングルマザー世帯が増えたことと教育費が高騰したことではないかと思う。
昔から言われてきたことだが、資源のない日本にとって人材こそが資源である。
そして、子どもこそが未来を担う存在なのだと思う。
喫緊の課題のように思うが、行政の腰は重い。
共感という名の連鎖
人の心には一体何が刺さるのだろうか?
時々、ブログが炎上したり、バイトテロの写真が物議を醸すことはあったが、所詮はどこかよその国の話と思っていた。
ところがである。
ごく身近なところで、何の変哲もない特定の写真がツイッターで大ブレイクしたのを目撃したのだ。
その写真以外にも、何枚も写真はアップしているが、他の写真のいいねは1桁台なのにである。
その写真をアップした数時間後には、数十のリツイートと数百のいいねを記録。
最初から、異変の兆しはあったようだ。
その後は雪崩のように数字が伸びていった。
1日後には、0.4万リツイートと1.5万いいねを記録。
2日後には、1.3万リツイートと4.8万いいねを記録。
この写真を見た人は、200万人を超えた。
リアルタイムで数字の推移を見ていたのだが、何が起こったのか理解できなかった。
人の心に刺さる、何らかの要素がその写真にあったのは確かである。
それをスルーするか、誰かに伝えたいと思うかで結果が大きく変わる。
ツイッターにしろ、YouTubeにしろ、個人が世界に対して自己主張をする手段を手に入れたらしいということは理解できた。
しかし、すべては共感という名の連鎖が鍵である。
エネルギーとは?
現在の文明を作り上げたもの、それは『エネルギー』なのだと思う。
エネルギーこそが経済そのものなのだ。
産業革命は、石炭というエネルギーを蒸気機関という動力に利用するところから始まった。
内燃機関は、石油をというエネルギーを動力にしている。
電気もまた石炭、石油、天然ガス、原子力から作られる。
人力や植物の光合成とは比べものにならないエネルギーを人類が手に入れたことで生産性が飛躍的に高まり、大きな付加価値を作り出すことが可能になったのだ。
エネルギーが再生可能なものであれば何の問題もない。
問題なのは、現在利用しているエネルギーのほとんどが元をただせば、化石燃料であったり、最終処分のできない原子力であったりする点である。
私たちは、快適な生活を送るために、車を使い、エアコンの効いた部屋で仕事をし、外国から運ばれてきた食材を食べる。
農業もまた、化学肥料、ハウス栽培、植物工場などエネルギー無くしては成り立たない。
すべては有り余る低コストのエネルギーが作り出す生活である。
自給自足ができなくなった社会の行く末を案じるのは、年寄りの戯言だろうか?
認識とは?
人間の認識とは、「外界の情報を大脳皮質の内部に投影し、内部モデルを作ること」であるという。
幼少期の頃、家族と住んでいる町の近所が世界のすべてだった。
人は成長するにつれて世界が広がってゆく。
日本、世界、地球、太陽系、銀河系、宇宙全体へと。
つまりは、「外界というリアルな自然や社会と、大脳皮質の中に投影された内部モデルが一対一で対応している」ということらしい。
外界の概念を認識するためには、とりあえず名前がついていなければならない。
「フランス」という国名があって、フランスという国をイメージできる。
「土星」という惑星名があって、土星の大きさや軌道がイメージできる。
世界を認識する際、様々な構成要素を科学のルールに基づいて理解することを「分かる」といい、科学以外のルールに基づいて理解することを「納得する」と便宜的に分けて考える。
分かる人には分かるが、分からない人には分からない、からだ。
現代は、圧倒的に科学技術が進化し、細分化されてしまった。
「分かる」ことが多くの人には困難になってしまったのだ。
そこで多くの人は「納得する」という世界を判断基準としている。
人類が「分かる」世界で獲得した成果を、「納得する」世界にフィードバックさせなければならない。
わたしがこのブログを書いている理由も、その辺りにあったらしいと気付いた。
まだまだ、「分かる」には先がありそうである。
我々はどこへ行くのか
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
ゴーギャンの代表作のタイトルです。
この問いは、今でも時々わたしの頭をよぎります。
なぜなら、人類が自然の摂理を踏み外してように感じるからです。
人類が木の実を食べ狩猟生活をし食物連鎖の頂点に立った時点までは、人類は自然の一部でした。
その後、農耕、牧畜をはじめ、化石燃料を使い、原子力を使い始め、人類は自然の一部ではなくなり、自然と対峙する存在になってしまった。
農耕、牧畜は長期的に自然環境を変えてしまう。
化石燃料の利用は2億年前に作られた燃料を二酸化炭素に戻してしまう。
原子力は、超新星爆発の時に生成されたウランを有害物質に変える。
人類は、食料やエネルギーを手に入れるために様々に自然を変えてきた。
ゴーギャンの作品は、1898年に描かれました。
この時代には、原子力はもちろんの事、化石燃料ですら今ほどには使われていない時代です。
この問いの『どこ』とは、西洋文明社会とタヒチとの比較から発せられたのでしょう。
その後、人類は大きな進化を遂げた。
いまでも、我々は同じ問いを繰り返す。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』