幼馴染
上京した折、幼稚園時代の女友だちに久しぶりに会った。
彼女との一番古い記憶は、幼稚園のスクールバスの中での会話である。
バスの窓から外を眺めながら、ひらがなで書かれた看板の読み方を彼女がわたしにレクチャーした。
わたしは、その読み方を知っていたが、彼女の気を引くため、わざと読めないふりをしたのを思い出す。
幼稚園の年齢で、既にひらがなを読めていたのだという事と女の子の気を引くためにそんな事を考えていたことに驚かされる。
あれから半世紀以上もの時が流れたが、想い出は色褪せることはない。
人の記憶というのは不思議なものだ。
あの時の光景、声、空気、色などのデータがわたしの脳のどこかに50年以上もの間蓄積されていたのだ。
多くの経験の記憶は忘却の彼方にある。
忘却と想い出、その取捨選択の基準は何だろう。
彼女と話をしながら、忘却の記憶の中をタイムスリップするような感覚を楽しんだ。
昔の友だちはいくつになっても、懐かしい。
経済の原則
経済の原則とは、最小の費用で最大の効果をあげるということだが、仕事における経済の原則には2種類ある。
誰かと協力することによって、自分も相手も得をするというケース。
誰かと敵対することによって、相手が損をすることで自分が得をするケース。
現実の経済活動においては、どちらも存在する。
資本主義は弱肉強食というが、人間は一人では生きてゆけない。
共存と独占の程よい関係こそが繁栄の鍵なのだろう。
そのためのバランスをとる仕掛けとしては、どこかですべてをリセットするか、敗者復活の仕組みを作るしかない。
過去の歴史において、リセットは戦争がその役割を果たした時期もあった。
しかし、これからの世の中においては、戦争という選択肢は避けなければならない。
敗者復活の仕組みは、教育によってよりよい人材に世代交代することで可能になるように思う。
世襲は社会を停滞させる。
もはや、教育の機会均等による敗者復活の仕組みを充実させるしか、社会、経済を活性化する道はないのだと思う。
新たな人材こそが尽きることのない資源である。
自由と平等
私の理解では、東西の冷戦時代、資本主義と社会主義の問題は、自由と平等の対立の問題だったように思う。
単純化すると、人類が希求するもっとも尊重すべき価値とは、自由なのか、平等なのかという問題である。
その後、ソビエト連邦が崩壊した。
カール・マルクスが主張した、資本主義は、やがて社会主義、共産主義に移行し平等で理想的な世界がおとずれる、という理論は瓦解したのだ。
だからといって資本主義が勝利したわけではない。
人間の「自由な欲望」が勝利したのだと思う。
高度に発達した資本主義においては、貧富の差はますます拡大し続けている。
もはや理念は存在しないのかもしれない。
「自由な欲望」は拡大を続け、自国ファーストの価値観が蔓延しているように見える。
結婚
しばらくブログの更新をしていなかった。
娘の結婚式に出席するため、しばらく上京していたからだ。
我が家には3人の娘がいるが、3回目の結婚式、新婦の父を経験した。
結婚に関しては思うところはあるが、娘たちのパートナー選びに口出しをしたことはない。
子どもの人生に、親は責任を負えないと思っているからだ。
結婚とは、結婚しないことも含め、誰を選択し、自分の人生をどう生きたいかという意見表明だと思う。
人は、大人になり、職業を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、ある意味自己責任なのだ。
親はアドバイスはできても、責任は取れない。
出来るのは、自分で判断できる見識を身につけさせる手助けくらいだろう。
いずれにしても、親離れ、子離れが、肝心なのだと思う。
恋愛という名の狂気
恋愛とは狂気であると常々思っている。
男性と女性のメンタリティは違うと思うが、男性の場合、思春期における性衝動はなかなかに厄介な存在だ。
理性と衝動のバランスを頭では理解していても簡単にはコントロールできないのだ。
だからこそ恋愛は狂気なのだと思う。
世間では、授かり婚や不倫は珍しくないが、これも狂気の成せる技だろう。
しかし、この狂気こそが生物としての人間が種として生き残るための戦略だったのだろう。
最近、AIの番組を観ていたら、その中で、『恋愛とは、価値観が変わる冒険』という表現をしていた。
なるほどと納得した。
恋愛、結婚、妊娠、出産等のイベントで、その人の評価軸、価値観が変わるというのはよく理解できる。
自戒を込めて、やはり、恋愛は狂気である。
子ども・子育て支援会議
2017年6月から2年間、高松市の子ども・子育て支援会議の委員になった。
高松市報で公募をしていたので、応募したら面接選考の後、採用されたのだ。
委員の総数は18名。構成員の内訳は、主に教育関係者、学識経験者などで公募の委員は3名である。
その役割は、年数回程度の会議に出席することだ。
議題や資料は、あらかじめ高松市の事務局が用意し、自宅に郵送してくる。
送られてくる資料は、毎回、数十ページにもなる。
突っ込みどころはいろいろあるが、意見や質問があれば事前にメールやファックスで出来る。
現在議論されている主なテーマは、保育園の待機児童問題。
平成29年度は、その中間の年になっているので、過去2年の実績を踏まえ、今後の計画を見直し、修正をするのだ。
実際には様々な要因で待機児童が発生している。
特に不足しているのは、産休育休明けの0歳児の受け入れ態勢らしい。
行政側としては何とか量を確保し、待機児童を解消する考えだ。
どこでもそうだが、計画立案する側と実際の現場とでは色々な意味で乖離がある。
その乖離を埋めるべく、子ども・子育て支援会議は存在しているのだろう。
問題の本質は、生後間もない赤ちゃんがよりよい環境で成長することが可能な社会を作っていくということだ。
子どもを持つ母親の80パーセントが家事以外の仕事に従事している現実の中で、子どもを産み育てる環境を充実させることは急務であることは間違いない。
量の充足はもちろんだが、保育の質が伴わなければ意味がない。
安倍政権は、幼児教育の無償化という方針を目指しているようだが、保育士の待遇改善、ひいては保育の質の向上こそが必要であるように思う。