ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

勝敗を分けるもの

ウィンブルドンテニスを観戦している。

テニスは自分でプレーしたことはないが、ライブを観はじめると途中で止めることができない。
一流選手のプレーは、それほど緊張感の連続なのだ。

どんなスポーツでも同じだが、観戦していて思うのはメンタルがいかに重要かということだ。

最終的に物をいうのは、フィジカルな面よりもメンタル面の差であるように思う。

ぎりぎりの状況の中で、ほんの些細な差が勝敗を分ける。

その真剣勝負に人が感動するのはなぜだろう?

それは生物が繰り広げる生存競争にも似てるように思う。

今生きている生物は、過去、一度も絶滅しなかったから今を生きている。

そんな、過去のDNAの記憶が人を熱狂させるのかもしれない。

 

今夜も寝不足になりそうだ。

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子どもの教育

縁あって、小学生に勉強を教えている。

若い頃から子どもに関わるボランティアをたくさん経験してきた。
仕事は、子どもとは無縁の業種だったが、いつか子どもと関わる仕事をしたいと思っていた。

子ども相手にボランティアをしていた頃、いろいろな親と子の関係を横目で見ながら、図らずも子どもをスポイルしている親を沢山見たような気がする。

しかし、そのほとんどは、子どもへの愛情が根源的な動機になっているのだ。
ごくレアな例を除いて、親の子どもへの働きかけは、愛情に基づいている。
しかし、残念ながら、それが上手く機能しない事も多い。

その多くは、子どもをひとりの人間として尊重することなく、自分の思い通りにコントロールしようとする所からはじまっている様に思う。

子どもにとって大切なのは、結果ではなくそのプロセスなのだが、多くの親は短期的な結果を求める。

子ども時代は、長い人生を生きるための自力を身に付ける期間だと思う。
学力はもちろん大切だが、いわゆる非認知能力(忍耐力、意欲、協調性、感情のコントロール、計画性など)こそが重要である。

親と子どもは、その関係が濃密であるだけに、当事者には関係性が見えにくくなる。夫婦なら離婚できるが、親子は縁を切ることができない。

そして、子どもは日々成長し、変化していくのだ。

子どもの成長には、親以外の多くの大人の手助けが必要だ。

わたしの活動が、そんな、子どもの成長の一助になればと思う。

 

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仕事

仕事には、2種類があると思う。

他の人に代替えが可能な仕事と、他の人には代替えが効かない仕事である。

現役で仕事をしていた頃、よく考えたのは、この仕事は私でなければ出来ない仕事だろうかという事だった。

誰にでも出来る仕事には魅力を感じない。
自分なりの工夫や独自性に意義ややりがいを感じていた。

アスリートや芸術家などの仕事は、他の人では代替えが効かない。

弁護士や医者のような専門職であっても、安心はできない。
グーグルが出現して以来、専門的な知識の価値は劇的に低下したからである。

代替えが出来る仕事とは、つまり、誰にでも出来る仕事とも言える。
さらに言えば、ロボットやAIに代替えが効く仕事とも言えるかもしれない。

デジタル的な仕事は、正確であることが求められる。
どんなに頑張っても、人間は正確さでロボットには敵わない。


私が考える、人でなければできない仕事、それは教育だと思う。

教育は、人を育てることによって、連鎖による拡大再生産を促し、更に、育てた人も育てられた人をも幸せにする。

人材こそが、尽きることのない無限の資源である。

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人を動かすもの

人を動かすもの。

それは、「欲望」ではなく、「共感」なのだと信じたい。

 

たぶん、いくつまで生きても、人は人生を短いと感じるのだろう。

どこまで行ってもやり残した何かは存在するのだろう。

よりよく生きられないものは、よりよく死ぬこともできない。

人生は可能性に満ちている。

無限の可能性もあるが、可能性でしかないとも言える。

だから、面白いのだ。

 

だから、今を生きるしかないのだ。

 

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付加価値

付加価値とは、人が労働によって生産された製品、もしくはサービスによって付け加えられた価値のことである。
現役時代に仕事をしていた頃、自分がしている仕事は給料に見合っているのだろうか、とよく考えた。
ザックリ言うと金融の仕事をしていた。
社会的な影響力という意味ではやりがいはあった。
会社の代表者や政治家、弁護士などと話をする機会も多く、仕事は面白かった。
しかし、自分の仕事がどんな人たちを幸せにしているのか、という実感はあまりなかった。

金融は社会の潤滑剤とも言うが、実際には何物も生み出してはいない。
取り引きにおけるリスクを回避する為の利ざやを取ったり、時間や距離の隔たりをお金に変えたりする仕組みである。
そこに情報というデータが付加されると利ざやはさらに拡大する。
物理的な商品が何もないのに、お金というデータだけが増えていくのだ。

お金という商品には、価値はあるが物理的な実体はない。量というデータがあるだけだ。
データにゼロがひとつ付くと10倍になる。

個別案件の融資においては、100万円の案件も1億円の案件も事務処理上のコストは変わらない。
金額というデータは100倍になるが、リスクは必ずしも100倍にはならない。
つまり、究極的にスケールメリットのある世界なのだ。
スケールメリットによって、金持ちはより金持ちになる。これこそが、貧富が拡大する理由である。

人々を幸せにする付加価値とは一体何だろうか。

いや、ロジックが逆なのだ。
人々を幸せにするものにこそ付加価値があるのだ。
お金によって人は幸せになれると幻想を抱くが、お金は手段でしかなく、目的にはならない。
目的はあくまでも幸せであり、その価値観は実に多様である。

実は、多様であることにこそ価値があると、わたしは信じている。

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パラダイムシフト

パラダイムシフトとは、『その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することをいう。』

60年以上生きてきたが、これまでパラダイムシフトを何度も経験したように思う。

わたしが生まれた1950年代の頃は、家庭電化製品は電球を除けば、ラジオくらいしかなかった。
それが、気がつけば1970年代には、ほとんどすべての家庭電化製品が揃っていた。

わたしが、数百万円の8ビットのコンピュータに初めて触ったのは1980年代だったが、その後、30年で小学生がスマホを持つようになった。

これらは、ほんの一例だが、同じような変化はあらゆる場面で起こっている。


わたしが、最近、社会に対して抱いている漠然とした不安。
その正体は一体何なのかと考えた。

今の社会は、若者が未来に対して夢を描けない社会なのではないかと思う。

真面目に努力した者が報われる社会こそが健全だと思うが、現実はそうなっていない。

貧富の差は拡大し、世襲が横行し、努力による敗者復活は、より困難となっているように感じる。

そんな中で、『働かざる者、食うべからず』という価値観が本当に正しいのか?

というのが、わたしの疑問である。

以前に、世界の穀物収穫量の統計を調べたことがある。

全世界の穀物収穫量は25億トンほど、世界の人口が74億人ほどなので、一人あたりに換算すると330kgほどになる。

もちろん穀物以外の食料も生産しているので、平等に行き渡れば飢餓は存在しないことになる。

それはひとえに機械化による労働生産性が向上したことが寄与している。

製造業はもちろんの事、農業においてもその状況は同じである。

広大な畑を、コンピュータとGPSに制御されたトラクターが走り回り、穀物を植え付け、収穫をする。

そこにはもはや、大地の恵みを謳歌する農民の姿はない。

AIが搭載されたロボットが存在するだけだ。

収穫された穀物は、やはりAIロボットが仕分けをし、無人化されたトラックや飛行機で全国、全世界に運ばれていく。

そんな未来が、現実のものになっているように思う。

人が労働をしなくても、付加価値は無限に生まれてくる世界にわたしたちは生きているのだ。

だからこそ、経済は際限なく拡大を続けているのに、デフレが起こるのだろう。

サラリーマンとして、30年以上働いてきたが、人が働いて得られる報酬は、その労働に見合っているのか、と考えた時、必ずしもそうではないように思う。

誤解を恐れず言うと、たぶん、もらえる報酬が多すぎるのだ。

アメリカの大企業のCEOの役員報酬が法外に高額なのは有名な話だが、AIや自動化が進んだ社会において、人間の労働による付加価値はわずかでしかない。

多くの仕事は、人が操作をしているように見えるが、実際にはコンピュータや機械がしているし、その割合は増え続けている。

つまり、勝ち組と言われている人の多くは、AI化、自動化、機械化による恩恵を受け、大した仕事をしなくても高額な報酬をもらえるシステムに組み込まれていると言えるだろう。

AI化、自動化、機械化からこぼれた作業を、機械の減価償却費より安いという理由で、非正規労働者に任せているというのが、今の産業構造である様に思う。

このままAI化、機械化、自動化が進むと、少数の勝ち組と大多数の負け組の格差は、際限なく広がっていくだろう。

全体として、世界の富の総量が増えているのに、格差、富の偏在によって、多くの貧困層が生まれるのは好ましいことではない。

かつて、日本の高度経済成長を支えたのは、分厚い中間層だった。

そうした社会矛盾を一気に是正するための手立ては、『ベーシックインカム』という制度ではないかと個人的には思っている。

ベーシックインカム』とは、国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付するという政策構想。
生存権保証のための現金給付政策は、生活保護や失業保険の一部扶助、医療扶助、子育て養育給付などのかたちですでに多くの国で実施されているが、ベーシックインカムでは、これら個別対策的な保証を一元化して、包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償することを目的とする。
従来の「選択と集中」を廃止し、「公平無差別な定期給付」に変更するため、年金や雇用保険生活保護などの個別対策的な社会保障政策は、大幅縮小または全廃することが前提となる。

もはや、ロボットが、あらゆるサービス、付加価値を産みだすほどに進化をすれば、人は意に沿わない仕事で働く必要はなくなるように思う。

ベーシックインカム』によって、国家が国民に一定以上の生活保障をすれば、個人は自己実現のために多様性を発揮でき、自由な発想で社会貢献ができるようになるだろう。

そして、一定の生活が保障されると『富』の持つ価値や意味は相対的に少なくなっていくような気がする。

では、『富』にとって代わられる価値とは何だろう?

それは、『名誉』だろう。
古今東西、人は『富』と『名誉』を求めてきた。

現代社会における『名誉』とは、即ち、ネットにおける『いいね!』である。

人々の関心が『富』から『名誉』へ。
『お金』から『いいね!』へとシフトするのではないか?

というのがわたしのパラダイムシフトの仮説である。

付加価値を産みだすものが、AIや機械になれば、人は、人の共感を得たり、人を驚かせたり、人を感心させるような、創造的な作業にこそ価値を見出すだろう。

その前提にあるのは、『教育による多様性』なのだと思う。

多様なもの、あらゆるマジョリティ、マイノリティを受け容れる社会にならなくてはいけない。

そんな社会が到来したとき、何が訪れるのか。

少なくとも、今よりもよりよい社会になっていることは確かだろう。

  

 

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人間関係の距離

人間関係は、相手との距離感だと思う。

通常、人は一定の距離を保ちながら人間関係を構築する。

その距離は、両者の関係に依存する。

親子なのか、夫婦なのか、兄弟なのか、恋人なのか、親友なのか、単なる知り合いなのか、などなど。

コミュニケーションやスキンシップによって、その距離は縮めることができるが、そこには両者の合意が必要だ。

一方が距離は縮めたいと思っていても、相手に拒否されるとその関係は成立しない。

良好な人間関係とは、両者が快適と思う距離を保ち続ける事なのだと思う。

 

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