ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

ディープラーニングの未来

人間の五感の中で最も重要なのは視覚だろう。

その理由は情報量が最も多いからである。

人間が活動していくうえで、視覚情報に頼っている部分が一番多いように思う。

AIによるディープラーニングが発達するまではイメージセンサーの情報は適切な処理ができなかった。

単純に数値化出来るデータしか拾えなかったからだ。

しかし、イメージデータ、視覚情報には、実はありとあらゆる情報が含まれている。

人間ならば、やすやすとその情報は処理をしているのだ。

車の自動運転などもイメージセンサーによって集められた周りの景色や人の動きの情報を適切に処理することによって実現が可能になる。

その処理こそが、ディープラーニングらしい。

かつてコンピュータの仕事をしていた頃、処理データのほとんどは数字、文字だった。イメージデータの処理などしたことがない。

データの定量分析の先にある定性分析は、人間の判断の領域だったのだ。

しかし、これからはディープラーニングによってコンピュータの仕事になっていくのだろう。

ディープラーニングによってコンピュータ、AIは確実に人間に近づいた。

ディープラーニングによる未来は、理想の未来か、悪夢の到来か。

f:id:ayuminokuni:20171202221638j:plain

幼馴染

上京した折、幼稚園時代の女友だちに久しぶりに会った。

彼女との一番古い記憶は、幼稚園のスクールバスの中での会話である。
バスの窓から外を眺めながら、ひらがなで書かれた看板の読み方を彼女がわたしにレクチャーした。
わたしは、その読み方を知っていたが、彼女の気を引くため、わざと読めないふりをしたのを思い出す。

幼稚園の年齢で、既にひらがなを読めていたのだという事と女の子の気を引くためにそんな事を考えていたことに驚かされる。

あれから半世紀以上もの時が流れたが、想い出は色褪せることはない。

人の記憶というのは不思議なものだ。
あの時の光景、声、空気、色などのデータがわたしの脳のどこかに50年以上もの間蓄積されていたのだ。

多くの経験の記憶は忘却の彼方にある。
忘却と想い出、その取捨選択の基準は何だろう。

彼女と話をしながら、忘却の記憶の中をタイムスリップするような感覚を楽しんだ。

昔の友だちはいくつになっても、懐かしい。

f:id:ayuminokuni:20171201173855j:plain

経済の原則

経済の原則とは、最小の費用で最大の効果をあげるということだが、仕事における経済の原則には2種類ある。

誰かと協力することによって、自分も相手も得をするというケース。

誰かと敵対することによって、相手が損をすることで自分が得をするケース。

現実の経済活動においては、どちらも存在する。

資本主義は弱肉強食というが、人間は一人では生きてゆけない。

共存と独占の程よい関係こそが繁栄の鍵なのだろう。


そのためのバランスをとる仕掛けとしては、どこかですべてをリセットするか、敗者復活の仕組みを作るしかない。

過去の歴史において、リセットは戦争がその役割を果たした時期もあった。

しかし、これからの世の中においては、戦争という選択肢は避けなければならない。

敗者復活の仕組みは、教育によってよりよい人材に世代交代することで可能になるように思う。

世襲は社会を停滞させる。

もはや、教育の機会均等による敗者復活の仕組みを充実させるしか、社会、経済を活性化する道はないのだと思う。


新たな人材こそが尽きることのない資源である。

 

f:id:ayuminokuni:20171130222430j:plain

自由と平等

私の理解では、東西の冷戦時代、資本主義と社会主義の問題は、自由と平等の対立の問題だったように思う。

純化すると、人類が希求するもっとも尊重すべき価値とは、自由なのか、平等なのかという問題である。

その後、ソビエト連邦が崩壊した。

カール・マルクスが主張した、資本主義は、やがて社会主義共産主義に移行し平等で理想的な世界がおとずれる、という理論は瓦解したのだ。

だからといって資本主義が勝利したわけではない。

人間の「自由な欲望」が勝利したのだと思う。

高度に発達した資本主義においては、貧富の差はますます拡大し続けている。


もはや理念は存在しないのかもしれない。

「自由な欲望」は拡大を続け、自国ファーストの価値観が蔓延しているように見える。

 

f:id:ayuminokuni:20171129160416j:plain

結婚

しばらくブログの更新をしていなかった。

娘の結婚式に出席するため、しばらく上京していたからだ。

我が家には3人の娘がいるが、3回目の結婚式、新婦の父を経験した。

結婚に関しては思うところはあるが、娘たちのパートナー選びに口出しをしたことはない。

子どもの人生に、親は責任を負えないと思っているからだ。

結婚とは、結婚しないことも含め、誰を選択し、自分の人生をどう生きたいかという意見表明だと思う。

人は、大人になり、職業を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、ある意味自己責任なのだ。

親はアドバイスはできても、責任は取れない。

出来るのは、自分で判断できる見識を身につけさせる手助けくらいだろう。

いずれにしても、親離れ、子離れが、肝心なのだと思う。

f:id:ayuminokuni:20171128234535j:plain

生きていることの奇跡

「死にたい」と言うことの心地よさ。

 

「死にたい」とは、死なないことを前提に発する言葉なのだろう。

かつて、人生の意味を模索し哲学書を読み漁った時期もあったが、人生の意味は書物には書かれていない。

生きてみなければ人生の意味は理解できない。


若いころ、人生は無限に続くように思われた。

無限にあるからこそ、その価値がわからないのだ。


経験的には、10年飽きずに同じことを続ければ、その道のオーソリティになれる。

その気になれば、いくつもの道のオーソリティになれるのだ。


いま、生きていることの奇跡に感謝。

 

f:id:ayuminokuni:20171119233652j:plain

恋愛という名の狂気

恋愛とは狂気であると常々思っている。

男性と女性のメンタリティは違うと思うが、男性の場合、思春期における性衝動はなかなかに厄介な存在だ。

理性と衝動のバランスを頭では理解していても簡単にはコントロールできないのだ。

だからこそ恋愛は狂気なのだと思う。

世間では、授かり婚や不倫は珍しくないが、これも狂気の成せる技だろう。

しかし、この狂気こそが生物としての人間が種として生き残るための戦略だったのだろう。


最近、AIの番組を観ていたら、その中で、『恋愛とは、価値観が変わる冒険』という表現をしていた。

なるほどと納得した。

恋愛、結婚、妊娠、出産等のイベントで、その人の評価軸、価値観が変わるというのはよく理解できる。

自戒を込めて、やはり、恋愛は狂気である。

f:id:ayuminokuni:20171118185319j:plain