「正義ほど厄介な思想はない。」
という言葉を聞いた。
自己の正当性への過信が危険を孕む。
正義と悪という単純な二極化思想こそが危険なのだろう。
世界はファジーで、曖昧で、混沌としている。
そういえば、「善意ほど厄介な感情はない。」と言った人もいた。
盗人にも三分の理。
人は「無料」の呪縛から逃れられないらしい。
昔から「タダより安いものはない」とか「タダより高いものはない」とか言われているが、タダである事が価値判断の思考停止を引き起こすのではないかと思っている。
日常生活においては、人は常に費用対効果の基準で取引をするが、費用がゼロになった瞬間、効果の評価はどうでもよくなってしまうからだ。
世の中には、お金で買えるものとお金で買えないものがある。
たとえ、タダであっても、いや、タダだからこそ、お金で買えないものの価値は無限大である。
若い頃、私がこだわり、知りたかった命題は、「自分が一体、何者なのか?」という事だった。
やがて、その疑問は、「私たちの社会がどうあるべきなのか?」という疑問に取って代わった。
さらに社会生活を送る中で、私の疑問は、「社会の現状をどう理解するのか?」と考えるに至っている。
あるべき社会がなになのかを模索しても意味はない。
なぜなら、価値観は多様で、未来は常に不確実なものだから。
現に生きている人々、つまり、私たちが現状をどうしたいと考えているかの総意こそが、今後のあるべき社会を形成していくのだろう。
社会全体を個人がデザインしても、うまく行った試しはない。
人々の社会に対する理解、認識が変われば、自ずと全体のベクトルも変わっていくだろう。
何が正しく、何を選択すべきかを自分で考える力を身につけることこそが重要だ。
個人は全体のために。
全体は個人のために。
その調和こそが、目指すべきゴールのような気がしている。
試行錯誤こそが重要だ。
学校の勉強やテストは、ある意味、簡単な事だ。
なぜなら、予め正解が用意されているからだ。
世の中には、正解のない問題がたくさん存在している。
難しくても、答えが見つからなくても、人は行動し、何かを選択しなければならない。
試行錯誤によって、成功体験と失敗体験によって、人は成長していくのだ。
人は、誕生した瞬間から誰かに生かされている。
もとより、乳飲み子は、ひとりでは生きられないからだ。
成長するにつれて、人は自立してゆく。
誰かの世話にならなくても生きていけるようになるのだ。
そして、ついには、人は、誰かのために生きようとするのだ。
だから、社会が成り立っている。
みんなが誰かのために生きられたら、みんなが幸せになれるのだろう。
人は、権力と富を求める。
その理由は、権力と富を持っている方が生存に有利だからだ。
人間の権力と富に対する欲望には際限がない。
権力と富は、食料などと違って集中すればするほど、大きな力を発揮するからだ。
権力と富が集中しすぎると社会全体のバランスが崩れる。
アメリカ大統領が三選を禁止しているのは有名な話だ。
人類の英知は、個人の権力と富に対する欲望をどこかで押さえ込むような決まりを作り、バランスを保っているのだろう。
民主主義国家においては、権力者は選挙で選出される。少なくとも一定期間に選挙という洗礼を受けるのだ。
では、富はどうだろうか。
トマ・ピケティは、著書『21世紀の資本』で、r>g、つまり資本収益率(r)は経済成長率(g)よりも大きいことを証明した。
つまり、資本を投下することで得られるリターンの増加率は、労働者の賃金上昇率より大きいのである。
このことは、貧富の差は常に拡大し続けることを示唆している。
累進課税や社会保険、生活保護の制度によって格差の是正が図られているが、根本的な解決には至っていない。
衣食住、人が生きていくのに必要にして充分なお金はどれ程だろうか。
多分、持っているお金が減ってゆくことへの恐怖が、必要以上にお金を溜め込みたいという欲望を掻き立てるのだろう。
年金や生活保護の様に、定期的に一定金額が給付されれば貯蓄という強迫観念から人は解放されるのではないだろうか。
それは、ベーシックインカムという制度である。
財源は税金なので、増税は必要になるが、ベーシックインカムは、お金の持つ意味を根底から覆す様な制度ではないかと思っている。
ベーシックインカムによって、お金を稼ぐ事は、目的ではなく、手段になるからである。
最低限の生活が保証されれば、必要以上にお金を稼ぐ事も、貯蓄も必要がなくなる。
働くことの目的が損得という価値観ではなく、自己実現になってゆくだろう。
結局、権力も富も、何かを実現するための手段であり、目的ではないのだろう。
実現する何か、それは「幸せ」しかない。
私たちが生きている世界は、誰かが作った付加価値によって快適な生活が成り立っている。
食べ物も、衣服も、住居も、私たちの身の回りにある、ありとあらゆるものは誰かが作ったものだ。
自給自足の生活をしていた時代、人の手によって製品が作り出されていた時代には、現在のような豊かな生活はできなかった。
かつては、人力によってしか、付加価値を産みだすことができなかったからだ。
地球規模で、人の交流が盛んになると、豊かになろうとする人間の欲望は、他民族を奴隷にしたり、財産を収奪したり、戦争をするという歴史がくりかえされた。
人は、他人の富を奪うことで、手っ取り早く豊かになりたいのだ。
相互交流や理解がない状態の中では、人は、見知らぬ人に対し好戦的になるのだろう。
多くの時間と犠牲を払ったが、グローバル化の波によって、世界は共通の価値観や寛容さを身につけようとしている。
さらに、産業革命、情報革命、インターネット、AIによって、人類の生産性は飛躍的に向上した。
現在では、付加価値のほとんどは、機械が低コストで大量に作り出し続けている。
付加価値を産みだす機械を動かしているもの、その動力の多くは電力だろう。
その機械は人が操っているが、そのウエイトはごくわずかだ。
機械は投入されたエネルギーコストの何倍もの付加価値を生みだす。
生みだされた付加価値の一部は人件費に支払われるが、そのコストは機械のランニングコストに比べるとそれほど多くない。
それも技術革新によって、人間の果たす役割はどんどん減ってゆく。
人件費を支払う必要のない機械によって、コストダウンが図られる。
そうしたコスト競争が行われた結果、製品の価格は劇的に下がっていく。
世界全体で生産される付加価値は爆発的に増えていくが、そのコストは劇的に下がり続ける。
このままではデフレになるため、意図的に金融緩和をし、世界経済はインフレを作り出してきた。
インフレによって、人々はさらに豊かになっていると錯覚する。
結果、世界は製品にあふれ現在の様な姿になったのだ。
「豊かさ」とは、一体、何だろう?
エネルギーによって拡大再生産を続けていく今の社会は、たぶん、立ち止まることはしないのだろう。
地球に、大航海時代のような未知なるフロンティアはなくなった。
もはや、月か、火星くらいしか未知なるフロンティアは残っていない。
人は、今まで、想像した未来を必ず実現してきた。
宇宙開発もまた、現実のものになるのだろう。
それが、人類が辿る必然的な道のように思えてならない。