ayuminokuni’s diary

人生をよりよく生きるために

コロナ禍の株高

コロナ禍の中、経済が疲弊しているにもかかわらず、株高が続いている。
この不思議な現象は一体なぜなのかと昨年から、ずっと考えていた。

最近、ネット情報で言われているのが、株高ではなく、お金の価値が下がっているとの説である。

技術革新やロボット技術で、付加価値を生み出すコストは、低下し続けている。
一方、お金は、政府がいくらでも印刷することができる。

そこで、製品ではなく、量の限られる物の価格が高騰する。かつての日本なら、量の限られている物の代表は土地だった。
しかし、リモートワークなどで土地の需要は頭打ちになった。
しかも、かつてない金融緩和の中、全員に一律10万円の特別定額給付金ご支給され、さらに感染協力金、持続化給付金、雇用調整金、休業補償、などなどの資金は、ほとんど無審査、もしくは、緩い条件で供給されている。
結果、本当に必要な所には行き渡らず、無担保、無利息の資金が無差別にばら撒かれたように見える。

結果、ダブついた資金は、株とビットコインと金に流れ込むことになったのだろう。
ここ1年で、
日経平均株価は、23千円台が27千円台に。
ビットコインは、100万円が400万円に。
金価格は、1グラム6千円が7千円になった。

株価は、全ての株が上がっているわけではない。株価は経済の先行指標と言われているが、未来を予想して株価は上下する。
実際の未来は誰にもわからない。しかし、こうなるのじゃないかという思惑で株価は動くのだ。
テスラの株価は、ここ1年で8倍になり、CEOのイーロン・マスク氏は、総資産20兆円でAmazonジェフ・ベゾス氏を抜いて、世界一の富豪になったらしい。

世界全体は、長期的には豊かになったが、二極化は加速化し、さらに多くの貧困層を生み出してしまった。
バブルは、いつかはじけるが、格差は縮まることはない。

結局、ベーシックインカムの様な制度を導入し、既存の常識や価値、制度を根底から考え直す時期がきているように思う。

幸せになるための価値観をお金から、お金以外の物へとシフトするしかないのかもしれない。

 

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幾何学的な網戸

 

勉強の価値

正月に読んだ本

森博嗣 著
『勉強の価値』
幻冬社新書 刊

を少し紹介します。


「思う」と「考える」と「気づく」


「思う」とは、記憶した事を頭に思い浮かべる。
思い浮かべた複数の事柄を組み合わせて新しいものを作り出す事が「考える」。
「考える」過程で、ふと別のものと関連してジャンプしてリンクする事を「気づく」と言うらしい。

「思う」は記憶。
「考える」は思考。
「気づく」は閃き、新たな発想の発見。

と言い換えることもできる。
自力で新たな発想を発見することにこそ、価値がある。

「思う」と「考える」ことはできても、「気づく」は人から教わることが難しいらしい。

問題を前にして、ひとりで考え続ける必要がある。
そうする事でしか、到達できない場所があるのだ。

そこにこそ、学びの醍醐味があるらしい。

 

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フィクションとノンフィクション

フィクションとノンフィクションの違いとは、何だろう?

一般的には、フィクションは絵空事、想像の産物で、ノンフィクションは事実の描写という定義であるように思う。
しかし、ノンフィクションであっても筆者の主観というフィルターを通した描写でしかない。
人は、何かを認識する時、自分が理解できる形に事実を再構築し、取捨選択をして脳に記憶するからだ。
つまり、自分が経験したことでさえ、実際に起こった事と相違するということが起こり得る。
人は、自分が信じたいものを信じ、自分が記憶したいことを取捨選択して記憶するからだ。
記憶、人のメモリーは、それほど脆弱であやふやなものなのだろう。

一方、科学や物理は、現象、事実の積み重ねの上に論理を組み立てる。
多くの人が再検証し、再現可能な現象を前提に、更なる検証を行い、事実を認定する。
フィクションである可能性は排除される。

つまり、世の中で起こっている人の営みの多くは、フィクションである可能性が高い。
政治も、思想も、宗教も、哲学も、更に言えばお金も、ある意味でフィクションなのだろう。
だからといって、それらの価値が毀損されることはない。

しかし、何がフィクションで、何がノンフィクションなのかは、常に意識する必要があるように思う。

 

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朝露に濡れた蜘蛛の巣

 

グーパーじゃんけん

週2回、各2時間、バドミントンをしている。
ダブルスのゲームでは、4人が2チームに分かれる。
組み合わせを決めるために、グーとパーだけの「グーパーじゃんけん」をする。
4人でグーパーじゃんけんをした時、1回で2人ずつの組み合わせができる確率は意外に少ない。
どのくらいの確率なのかというと。
2の4乗なので、組み合わせは16通り、その内2人ずつに分かれる組み合わせは、6通りしかない。
つまり、1回のグーパーじゃんけんで組み合わせが決まる確率は、16分の6で、37.5%しかない。なかなか組み合わせが決まらず右往左往することも多い。

もっと簡単に組み合わせを決める方法はないだろうか?
そこで、考えたのが4人のうち3人でグーパーじゃんけんをするという方法である。
3人で、じゃんけんをして、2対1に分かれた時点で、のこりの1人が少ない方のチームに入れば4人を2チームに分けることができる。
3人でグーパーじゃんけんした時の組み合わせは、2の3乗なので8通り。そのうち組み合わせが2対1に分かれるのは、6通りである。
つまり、1回のじゃんけんで決まる確率は、8分の6なので75%の確率で決まる。
これなら、あまり手間はかからない。

問題を解決するためのアルゴリズムは、いくつもある。
今までの常識を疑ってみることが重要だと思う。

 

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エアロータス100

 

しあわせとは、何だろう?

人は、幸せを求めて右往左往する。

幸せに必要不可欠なのは、『経済』なのだと思う。

近代になるまで、ほとんどの時代、経済は、今ほど豊かではなかった。生命を維持していく為の食糧を人力で生産し、余剰の付加価値を生み出すことは、意外に大変な作業だからである。実際、江戸時代には何度となく飢饉が起こっている。
人類の過去を振り返ると収奪と殺戮の歴史であることがわかる。
より豊かになるために、誰かの富を奪ったり、誰かを奴隷にするという行為は、普通に行われていた時代もあった。
人が集まり、集落を作り、やがて人々は中央集権的な国家を作り上げた。
さらに、周りの国々を併合し、植民地化することによって、自国の繁栄と安定を手に入れようとした。
いずれにしても、少ない富を潤沢に手にできたのは一部の支配層だけだったのである。
かつては、富を独り占めする事の正当性を担保するため、宗教が利用された。
宗教の多くは、天国の存在を謳っている。現世での幸せを約束できないので、来世での幸せを約束し、人々に希望をもたせようとしたのだ。宗教を信じる人の多くは、天国の存在を信じているが、天国への行き方については、それぞれの宗教で異なっていた。
一方、産業革命によって生産性が向上すると世界は一変した。
潤沢に付加価値を生み出すことができるようになったからだ。付加価値を産み出す生産手段と労働者を確保することに人々は奔走したが、一般大衆は、生産手段を手にした資本家から搾取されるだけの存在だった。
やがて、資本家と労働者の対立が激化した。
そして、資本主義者と共産主義者の対立が始まったのである。
資本主義者も共産主義者も経済成長によって現世に天国を生み出す事ができる主張した。ただ、具体的な手法については相違があり、イデオロギーという価値観の問題を争っていた。
個人的には、資本主義と共産主義の違いは、自由と平等のどちらを尊重するこという問題なのかもしれないと思っている。
結果として近年は、資本主義が勝利をおさめたように見える。そして、市場経済が形成された。
しかし、資本主義が最終的に理想的な社会体制なのかどうかの評価はもう少し歴史の審判を待たなければならない。
資本主義が勝利をおさめた要因は、人々の欲望をモチベーションとしたことである。
さらに、経済をゼロサムゲームと見なすのをやめて、あなたの利益は私の利益でもあるという、ウィンウィンの相互利益のアプローチをしたことで、天上の理想世界ではなく、現実社会での繁栄という奇跡を実現したのである。
資本主義は、世界中から飢餓をなくせるほどの成功をおさめたが、結果として飢餓はなくならなかった。経済的な豊かさが、更なる経済的な格差を生んでしまったからだ。
2016年、世界で最も富裕な62人が、最も貧困な36億人分と同じ資産を所有していると発表されて、世界を驚かせた。
しかし、3年後の2019年には、世界で最も富裕な8人が、最も貧困な36億人分と同じ資産を所有していると発表されたのである。
富裕層と貧困層の二極化がますます顕著になっているのは明らかだ。
人類は、環境を破壊しながら、今でも繁栄を続けている。際限のない拡大再生産は、どこかで行き詰まる。
SDGs(Sustainable Development Goals、持続可能な開発目標 )を叫んでみても、経済の拡大は止まらなかった。
しかし、コロナウィルスの蔓延で、経済は停滞したのだ。
食糧不足による生命の危機から脱却した人類は、感染症の危機にさらされる事によって、経済よりも優先すべき何かがあると気づいたはずなのだ。
 
最初の問いに戻ろう。
 
しあわせとは、何だろう?

 

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月齢1.4の月と金星と水星

 

ユヴァル・ノア・ハラリ

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作を読んでいると「慧眼」という言葉を思い出す。
彼の著作には、わたしがこれまでに出会ったことのない視点、思索に富んでいるからだ。

それは、以下のような記述である。

自由主義者も、共産主義者も、現代の他の主義の信奉者も、自らのシステムを宗教と呼ぶのを嫌う。
なぜなら、宗教を迷信や超自然的な力と結びつけて考えているからだ。
共産主義者自由主義者は、あなたは宗教的だと言われたら根拠のない絵空事を信じていると非難されているように思うだろう。
だが宗教的というのは、人間が考案したのではないもののそれでも従わなければならない何らかの道徳律の体系を、彼らが信じているということにすぎない。
私たちの知るかぎり、あらゆる人間社会がそうした体系を信じている。
どの社会もその成員に、人間を超越した何らかの道徳律に従わなければならないと命じ、その道徳律に背けば大惨事を招くと言い聞かせる。』

いままでずっと、わたしが宗教やイデオロギーに懐疑的だった理由が理解できた気がした。


「何らかの道徳律の体系」こそが、人間社会のコンセンサスとして世の中を形成している。
多くの人たちは、その「何らかの道徳律の体系」に疑問を抱かない。
しかし、「何らかの道徳律の体系」に疑問を抱き、背いたとしても「大惨事」は起こらない。

結局のところ、世界は、現状を守ろうとする保守主義者と現状を変えようとする革新主義者とのせめぎ合いなのだ。
どこまで行っても、保守主義者と革新主義者は折り合うことはない。
多くの教訓を得ながら、争いと失敗を繰り返すのだ。

だから人間は進化を止めないし、行き着くところまで行くしかないのだろう。

これこそが、これまでの人類の歴史そのものなのだと思う。

 

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人生を俯瞰する

10年スパンで目標を立てる。

5歳から15歳 初等教育、非認知能力の獲得
16歳から25歳 高等教育、専門性の獲得
26歳から35歳 実務能力、社会性の獲得
36歳から45歳 創意工夫、独創性の獲得
46歳から55歳 指揮、統率、集団の指導
56歳から65歳 後進の育成
66歳から75歳 社会への還元、奉仕
76歳から85歳 達観

人は、今を生きる。

 

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